パンフレットより

■伊藤智生さま ‥‥‥ 記録映画作家 羽田澄子 

 あなたの作品「ゴンドラ」を見る機会を与えて下さってありがとうございました。
私は深い感動と共感をもって見終えることができました。
この感動は久しく感じることのなかった感動でした。
どう言ったらいいのでしょう。
いろいろな想いが錯綜するので順序だたないのですが。
 まず、トップシーンでビルの屋上からせり出したゴンドラからはるかな下界を見おろしたショット。
「ゴンドラ」という題名なのに、私はうかつにも、ビルのゴンドラをイメージしていませんでした。
めまいとともにこの映画が「ゴンドラ」であることを実感したのでした。
カットのもつ硬質な肌ざわりは、まるで大都会そのものの肌ざわりのようでした。
このカットがすでにある予感をはらんでいましたけれど。
 「ゴンドラ」は大都会のもつメタリックな疎外感をほんとうによく表現していました。
私自身、ビルや高層アパーに身をおいたとき、
鉄とガラスとコンクリートが構成する人工的な空間の中で、
何かが欠落していくめまいに似た恐怖感におそわれることがあります。
日頃、心の奥底で感じていたこの感覚が、
実にみごとに映像化されているのを、虚をつかれる思いで見つめたのでした。
この感覚は、言葉では、百万言つかっても的確には表現できないと思うのですが、
映画はまさに、このような感覚を表現する言語であることを
「ゴンドラ」を見ながら改めて思ったのです。
 実景の感覚的な捉え方とともに、大都会の疎外感を肉体化していたのが、
あのかがりちゃんでした。
何と不思議な子供でしょう。
あの子の存在がこの作品を決定的なものにしましたね。
あの子がいなければ、この作品は恐らくなり立たなかったと思いました。
 この作品は映画でしか語れない言語をもっていることに私は感銘をうけたのですが、
それを支えている一つの柱に撮影の技術があると思いました。
技術は過剰になると、それだけ浮いてしまいがちですけれど、
「ゴンドラ」では、技術的な工夫がすべてプラスに働いて、映画の表現をゆたかにし、
工夫自体がテーマを語る表現になっていました。
このようなことは稀有なことではないでしょうか。
ストーリーが単純であることも、
「ゴンドラ」の場合はよい結果を生んでいると思います。
単純さが、きわめて求心的に働いて、
あらゆる表現が一点にひきつけられていく構造になっているのです。
 そして、かがりちゃんの目が
その働きを一層強めていて、
それはまるでブラックホールのように、
すべてを吸いこんでしまう気がしました。

 

 私は、「これは私の好きな作品だ」と思いました。
だから一層強く思ったのかもしれませんが、
何より「ゴンドラ」が純粋に一人の作家の作品としてなり立っているということに
心を打たれたのでした。
 それは、発想にはじまり、創造のあらゆる過程に、
一人の作家の魂と技が通っているということです。
現在、数多く作られている映画のなかで、このような純粋さをもち、
しかも傑作である作品がどれほどあるでしょうか。
私はこの困難な状況のなかで、これ程の作品を生みだした努力と才能に心から敬服したのです。
日本の映画は古い映画の世界からではなく、
全く違う途をたどって現れる新しい才能によって途がひらけるだろうとは思いつづけていましたが、
「ゴンドラ」が、そのような状況をまさにつくり出していると思いました。
 ところで、主役の青年が、あなたにそっくりなので驚きました。
多分、あなた自身この作品にかけた想いが、この青年を選ばせたのでしょうね。
とにかく、かがりちゃんは抜群でしたが、
青年も他に替えられ存在感があって良かったし、他の俳優さんもぴったりでした。
 映画の内容についての感想にあまり触れられませんでしたが、
「ゴンドラ」を見せていただいて、あなたにまず伝えたいと思ったのは、こんなことだったのです。
 とにかく、第一作でこれ程の作品を創造された才能に心から拍手を送りたいと思います。

三月三日(きょうはひな祭りですね)
羽田澄子(記録映画作家)