シネ・フロント 132号 普及版 より

ねェ、おとなになって、良かったとおもっている?むなしくない?
 わずか11歳の少女が、これほど重いことばを渇いていってのけるとは‥‥‥
 上村佳子と伊藤智生は、日本映画界の新しい原石だ
‥‥‥ 映画評論家 北川れい子


 幾度となく、うろたえてしまった。
 何回も、にぶい痛みを感じてしまった。
 不吉な予感を先取りし、その先取りした予感の醜悪さに覗き見をみつかってしまたときのような気まずさを覚え、思わず椅子に座りなおしたしも‥‥‥。
 それも当然だと思う。
 初潮をむかえたばかりの孤独でかたくなな少女と、同じく孤独な青年との密やかな関係。
 そこになんら性的な関係はなかったとしても、実話雑誌風なよくある話しを嗅ぎ取って、ゆがんだ野心と暗い欲望をデッチ上げても不思議はない。
 ところが違っていた。
 オレンジ色の海に小舟が浮かぶエンディングでフッと気がつくと、オープニングからこのシーンにいたるまでの、すべての映像、すべてのエピソードが、まるでベールを剥いだように鮮やかに一変し、一本の映画を観ながら、同時にもう一本の映画を観たような感動と興奮を覚えたのであった。
 それはたとえば、どういう絵が現れるか分からないまま、勝手な創造でジグゾーパズルの不定形な断片を一枚一枚つなぎ合わせていて、途中、なんだ静物画が、と思っていたら、意外や、人物画だったとでもいうような。

 この作品は、それほど鮮やかに、垂直から水平へ、リアルから幻想へ、人工的無機質から自然な光景へと変身し、いつの間にか少女も青年も透明な存在となって風景のなかに沈んでいる。
 そういえば秀れた映画の多くは、場面と全体のイメージは、常に対立し、拮抗する。
 それにしても、私が映画を観ている最中、幾度となくうろたえ、あるいは気まずく思ったのは、少女のあまりに無防備な孤独と、青年の素朴すぎる孤独であった。
 少女の無防備な孤独は、自らを“見えない人間”として無機質化し、誰にも心を開こうとはしない。青年の素朴な孤独は、都会の風景に海を重ね、そこにひっそりと閉じこもる。
 前半の二人を取り囲んでいる状況は、コンクリートとガラスとプラスチックとステンレスで出来上がっている。ひんやりと冷たい人工的大都会だが、人も建物も垂直に孤立せざるを得ない環境の中で、ふと目を交わし合った少女と青年の危うい関係は、やがてやわらかく重なって、少女は背伸びをやめ、青年は自分の両親の悲しみを理解する。
 イメージに重なる音や空白、ぶっきら棒にかわされることばのやりとりが素晴らしい。
 さらに感情を拒否するような無機質な光景と、思いがいっぱいに詰まっている小さなモノや小道具たちとの危うい力関係。
 息苦しい不安を暗示させる血や水、油などが、映画が進む中で、ファンタジックでリアルな抒情と郷愁が漂う、甘くせつないオレンジ色の海へと変わるさまは、まさに心地よい興奮であり、そしてまぶしいほど美しい。
 瓜生敏彦のカメラを始めとするスタッフの優れた仕事ぶりに感激しつつ、伊藤智生監督の確実な才能に、心からの拍手を送りたい。