パンフレットより

<確かさ>を求める作業 ‥‥‥ 映画評論家 大久保賢一

 かがりという名の少女を演ず上村佳子の表情が、この作品全体に力を及ぼしている。作品そのものが彼女の表情を息を殺してみつめているといってもよい。
 かがりが初めて笑顔を見せる、その瞬間へ向けての求心的な動きが「ゴンドラ」という映画だ。
 都会のマンションに母親と住む10歳のかがりと、ビルやマンションの窓掃除をする青年(彼は宙に吊されたゴンドラに乗って映画に登場する)。二人は、かがりの部屋のガラス窓を通して、初めて対面する。
 二人の間をつなげるのは部屋の鳥籠の中の小鳥、仲間に攻撃されて傷ついた小鳥だ。
 青年に伴われたペットの病院でかがりの小鳥は手当を受けるが、その甲斐もなく翌日には死んでかがりに引き取られる。
 小鳥をどのように葬り弔うか。その送り方を探すことが、かがりと青年の行動のラインとして引かれる。
 小鳥の亡骸は、運ばれることで様々な容れ物のイメージを呼び寄せる。
 大きなマンションへと母と引っ越す以前にかがりが住んでいた、団地。夜の団地の庭に、いったんは小鳥を埋めようとした彼女は思いとどまって言う。「ここにはもう戻れないから」。暗い塊としてうずくまる背後の団地は<過去>そのものであり、その内懐に息のつまるような「温かい」家族の情愛、齟齬、接触という<過去>をかかえこんでいる容れもののイメージでもある。
 かがりが小鳥の亡骸を収めていた赤い弁当箱は、彼女の母(木内みどり)が、メタリックで「清潔な」現在の環境の中に唯一持ち込んでいた<過去>だ。弁当箱を観た彼女のショックは、表面的には想い出の品に死骸を入れられたおぞましさからくるものだが、それは、唯一の<過去>のしるしを奪われようとした(それも「棺」として)ショックともいえるのではないか。
 母にとって、赤い弁当箱が現在の、現実の不確かな感触の中で唯一の<確かさ>だったとすれば、かがりにとってそれは、廃墟の中に隠した宝の箱だろう。彼女はこの容れ物のなかに<過去>を封じ込め、ときおり出向いてそこから<過去>を取り出すことで、現在の現実へ向けた硬い表情をはずす。
 取り出されるハーモニカは作曲家だった父、母と別れて去った父(出門 英)のイメージを呼ぶ。父から贈られていたメロディを吹くことのできるハーモニカは<過去>を再生させる道具であり(それは映画の最後ではじめて現在のために吹かれているが)かがりが繰り返し振動させる音叉は、外界と「言葉」を交換することに強い抵抗を示すかがりが、夢と白昼夢として確かなリアリティを持って再生し続ける<過去>と現在との境界で打ち鳴らす道具だ。
 その道具、音叉が青年に手渡される。これは彼女の現在を拓くことを青年に委託するしるしだろうか。
 青年は、ガラスによって他者と隔てられていると強く意識していた。確かな感触を奪われているという意識だ。だが、<確かさ>はどこにあるというのか。彼がかがりを伴う北の海辺の故郷にか。
 彼の父と母が見せる感触。風呂でかがりと流し合う母の背や、不自由な父の口元から飯粒をつまむ指と口。かがりに新鮮な驚きをもたらし、体の、心のこわばりを解くようなこれらの感触は、青年自身にとっても<確かさ>といえるのだろうか。彼は小鳥の葬いのために廃船を再生する。記憶の再建でもある。<確かさ>を求める作業はそのように、<過去>と、<葬うこと>と関わらずにはあり得ないと、この作品は示しているようにも見える。





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