撮影日誌   - 2日目 -




 ■2006年11月17日


 この日からはひとりでの撮影だ。
 バッテリーの充電や機材・テープの事前チェックなど、全部自分で責任を負わねばならないので、結局出掛ける寸前まであれこれと準備。

 低血圧で朝起きがけは使いものにならない私は、前の晩に寝ずに現場に行き、近くで車中で仮眠するのが一番の得策だ。
 この日もそのようにする予定で4時頃出掛けた。
 するとちょうど朝焼けの美しい時間にでら〜とに到着してしまう。
 こうなるともう寝るどころではなく、この美しい朝焼けと施設の全景が撮れる場所探しに没頭してしまうのは、映画屋の仕様だから仕方ない。
 付近をくまなく周り、高台を探し、車を留めては撮影し・・・を繰り返しているうちにもう7時半を回ってしまった。シマッタ一時間半しか寝れない。
 でら〜との駐車場にとめて車中で寝ることにする。しかしほどなくしてまだ挨拶のすんでなかった職員の方に何者だと叩き起こされる。当然だ。とんでもない不審者だ(笑)。
 事情を説明すると「どうぞ中で休んでください」と言っていただくが、もうここで寝ていたほうがラクだとお断りすると、そうこうしているうちに「おはよう〜」の声が響き、利用者さんたちが登所し始めるので、結局そのまま寝ずに撮影を開始する。

 そして9:30。施設見学会の集合時間がきた。
 今日は、富士市を中心に活動をしている、「はなみずき」という重度心身障害児親の会 の皆さんが、藤枝市の「わかふじ」という通所更生施設を見学に行かれるのに同行する。

 そこに渡邊雅嗣さんも参加された。

 会の皆さんが借りたマイクロバスに同乗させてもらって移動。約1時間で着く予定だったが、少し道に迷い到着は遅れた。
 私は総じて乗り物に弱い。自分で運転する車はパスなのだが、人が運転するバスなどはいちばんいけない。マイクロバスの運転手さんはたぶんベテランなのだろうが、前後の揺れはさらにいけない。おまけにとなりで小澤さんが「でら〜と」が県の補助金を受けれていない事情を熱心に語ってくださるので、夢中になって聞き入って小澤さんを見つめていると、前後にカラダは揺れるしバスの窓外の背景は流れてるで、ついに吐き気の一歩手前までくる。目をそらしても失礼だし、こりゃかなりいけないと思ったとき、数軒ある民家が点在する畑のどまんなかに建つ「わかふじ」に到着して助かった。もし別便の自家用車で先発しておられた他のメンバーさんが施設の前に立っていてくれなかったら、またマイクロバスは引き返して私にはあられもない惨事が訪れたかもしれない。

 一時間ほどで施設見学は終了。すぐ近くに特別養護老人ホームを持つ法人が運営している民間委託の施設だった。B型通園事業の認可を得て、県からの補助金もここでは取得できているとのこと。
 利用者がカラダを沈めるのではなくて、お風呂桶のほうが上にあがってきてくれるお風呂などを設置されている。これは利用者が不安感を持たずに入浴ができるのだが高価だったりする。なるほど随所に老人施設で得た配慮が反映された施設になっていると感じた。「でら〜と」が補助金を受けれない事情をあらためて取材する必要があるようだ。

 帰路は日本坂SAでみんなで昼食をとることになっていたので、別便の乗用車のほうにに同乗させて欲しいと頼む。できればマイクロバスの客観映像を撮りたかったこともあったけれど、あのバスにまた乗りたくなかったのが本音だったり・・・。
 乗用車のお母さん方三名は、まだお子さんが養護学校に通っておられ、これから卒業後の施設をと検討されている方たちだった。車にはありがたいことにサンルーフがついていたので、そこからカメラと頭を出して後ろにつけるマイクロバスの客観を撮影(うまく撮るのは難しい。使えるかは微妙)。車内でカメラは回さなかったが、まだお子さんがでら〜との利用者ではない保護者の方のお話が少し聞けたことも今後の参考になりそうだ。

 SAのレストランでは、渡邊さんの昼食を撮影させていただく。
 今日の付き添いのヘルパーさんは川久保さん。三人の息子さんを持つとは思えないほど若々しいヘルパーさんだ。
 渡邊さんの介助はあうんの呼吸で進み、渡邊さんはたこやきをおいしそうに頬張った。コーヒーにはミルクをいれない主義。
 そこで乗用車の皆さんとはお別れで、しかたなくまたマイクロバスに乗せていただいて、でら〜とに戻った。

 でら〜とでは、障害児(者)ホームヘルプサービスも事業として行っている
 利用者の障害の度合いなどによって、公費で援助が受けれる時間は限られるのだが、例えば、食事・排泄・入浴・着脱・洗髪・清拭などの身体介護支援、掃除・洗濯・調理などといった家事援助支援、社会参加の為の外出支援などが必要な場合、渡邊さんはこういった事業所を通してヘルパーさんの派遣を依頼しているのである。

 そして、この日は渡邊さんの年末年始のことについての話し合いがもたれる。
 実はつい最近、すでに高齢になられ、市民住宅でひとり暮らしをされている渡邊さんのお母さんが、病気で要介護になってしまったのだ。
 7年前にひとり暮らしをされて以来、毎年、年末年始は実家に帰って過ごされていた渡邊さんだが、それが今年はそんな事情でかなわなくなった。しかも、事業所はどこも年末年始は介護サービスがお休みになる。もしヘルパーさんに来てもらえないとなったら、年末年始、全介助が必要な渡邊さんはどう過ごしたらいいのか。
 これは本人だけでなく、渡邊さんにかかわるいくつかの事業所全部が気を揉んでいる案件だった。

 この日、渡邊さんの相談には、でら〜との施設長小林不二也さんが向き合う。
 現在、でら〜との事業所では、渡邊さんの介護を担当していない。しかし、古くから渡邊さんの自立生活を応援してきた小林さんは、渡邊さんが最近元気がないことも心配している。渡邊さんは「いろいろと叱られてばかりで、言いたいことが少し最近言いにくい」と漏らす。
 渡邊さんの希望は、なじみの男性ヘルパーHさんにお願いしたいとのこと。しかしそのHさんの所属する事業所は以前渡邊さんとトラブルがあって、現在は渡邊さんとの利用契約がない。渡邊さんの希望に添うためにはいくつかのハードルを越なければならない。
 そしてその前に立ちはだかるお母さんの生活の問題...。
 実家に住んでおられたとき、渡邊さんには、お母さんとともに優れた介助者であった妹さんがいた。しかしその妹さんもいまは長野に嫁いでお母さんとの同居もできず、要介護になったお母さんと雅嗣さんとの同居を望まれている。しかし渡邊さんはもうしばらくこのひとり暮らしを維持したいという希望がある。かといってお母さんの病気は心配だ。そのことで渡邊さんの頭はここ数日いっぱいだと言う。
 今、渡邊さんが暮らす小さな住宅(3Kの一軒家)に、介護保険の利用が必要になったお母さんを引きとった場合、渡邊さんが受けていた生活保護を引き継げるかという問題や、互いの受ける家事支援や身体介護など、一世帯で違う法制下にある介護支援が複雑に絡み合うため、まだお母さんの進退は決まっていない。
 小林施設長はなんとか渡邊さんの希望に添えれるよう、年末への手配をすすめていた。渡邊さんが希望するヘルパーHさんも「でら〜と」に駆けつけ、一応年末の数日の予定はなんとかなったかと思われた。
 
 そして、渡邊さんの帰宅。
 外出介助の川久保さんは3時半までだったので、小澤さんが自分の車で渡邊さんを送迎してくれると、5時からのヘルパーさんが玄関外で待っていてくれる。
 食事介助のヘルパーさんはとても若いYさん。排泄介助の時だけは私も同室をはずして待ち、その後の生活の様子を2時間半あまりにわたって撮影させていただいた。
 Yさんが夕食の準備をしている間、渡邊さんは電話をかけ始めた。かけるといっても番号を押すのはYさん。
 まず、今日3時半までに川久保さんと自宅に戻れず、ヘルパーさんに対する時間の配慮が足りなかったと、川久保さんの所属する事業所に渡邊さんは詫びる。そして「でら〜と」に年末の介助のことを相談したと報告する。
 すると、事業所の責任者が、その件についてはこちらでも心配していたのに、なぜ勝手に他に相談するのかと怒る。渡邊さんは勝手に相談したわけでもない。みんなが渡邊さんの年末年始を心配する経緯で、自然と相談に乗ろうという具合になっていったのだ。しかしそれを説明するのは渡邊さんには難しい。コミュニケーションの不足から誤解がうまれる様が手にとるようにわかる。最後は「そういうことは勝手に決めないでね」と冷たい言葉を残して電話が切れる。





 そういう反応は、渡邊さんには予測できていたのかもしれない。予測できるあまり、少しでも早く報告しておかねばまた別の誤解とトラブルを生むと、それを未然に防ごうと必死で電話をされていたのかもしれない。
 次に渡邊さんは、でら〜との小林施設長に電話をかけ、川久保さんの事業所の責任者を怒らせてしまったことを報告する。自分が悪かったと関係調整を頼む。小林施設長にしてみると、すでに川久保さんの事業所はでら〜とに渡邊さんが相談していることも承知の事実と思っている。「話していなかったのか、それは渡邊さんもまずかったなぁ」と小林さんも困った様子だ。小林さんにしても事業所同士、こうした感情的なトラブルは避けたいところに違いない。
 我々でさえ、未然に防げない感情のトラブルがある。あっちに根回ししておいて、こっちと調整していた筈なのに行き違うことはよくあることだ。ところが、そのちょっとした根回しすら、渡邊さんにとってどれほど困難かがわかる。スムーズにできるわけがない。実際には渡邊さんの配慮が足りないのではないのだ。
 小林さんとのやりとりのあと、渡邊さんは自宅に帰られた小澤さんにも電話をかけ、一連の経緯を相談。小澤さんは、いたたまれない渡邊さんの気持ちを瞬時に理解して調整につとめてくれることになる。



 そうこうしているうちに夕食ができる。今日のメニューはクリームシチューとシュウマイ。
 Yさんは、明るい声でいろんな話をしながら、とても楽しい食事介助の時間だった。どれほど、電話での一件で傷ついた渡邊さんの気持ちがとけて癒されたことだろうと思う。

 そんな一部始終が撮り終わって、食後の歯磨きも終わるともう7時。Yんの時間が終わると、次のヘルパーさんがみえるのは8時半。
 朝からの外出と、ハードな展開に気疲れを重ねた渡邊さんは相当疲れていたと思う。私もYさんと一緒においとまする予定でいたのだが、Yさんが帰ると同時に、渡邊さんの妹さんから、今、もうすでにお母さん宅の荷造りを初めている、という電話が入る。
 「話をしたいからこっちに来てよ」
 「荷造りでもうくたくただからそっちには行かない」という妹さん。
 結局、「もう少し調整するから引っ越しは待って欲しい」という雅嗣さんの声は、妹さんの声にかき消されるように電話はガチャリと切れる。
 
 部屋にやけにしんと重い空気が流れる。

 カメラは回ったままだ。
 私は渡邊さんに声をかけたいと思ったが、どんな言葉もこの厳しい現実の前には嘘っぽくて、スルリとは出てこない。
 渡邊さんが静かに口火を切ってくれた。
 「いつも、どれくらいテープは回るの?」
 優しい声の響きだった。気まずい空気を察してくれていると感じた。
 「今日はもう4本回っていますよ。渡邊さんの苦悩がたくさん撮れましたから。」と私がようやっと言う。
 ニコっと渡邊さんが笑ってくれる。私も同じように笑い返す。
 この一連の事態の不条理さを、一緒に共有した者にしか交わせない合意の苦笑に思えたが、もしかしたら渡邊さんは私を試していたのかも知れない。コイツはちゃんと状況を理解し、把握できているのか、と。

 「こういう風に行き違っていくのです。これが、一番ツラい」

 それだけ言うのに、渡邊さんは約1分かかる。
 「ツラいですよね」私は3秒。

 次の言葉を待つ間がまた数分。

 時間から時間でスケジュールを区切らざるを得ない派遣事業でこの関係の厳然たる溝を埋めるのが難しいのも明白だ。
 しかし埋めたいと思う気持ちが大事だと思った。その気持ちがなければ、どんな関係も始まらない。
 妹さんの考えもわかるけれど、そこでも気持ちはすれ違うんだ、と渡邊さんは言った。
 「本当のことを言ったら、自分が選んだヘルパーさんに、自分でお願いすることができたら一番いい」
 力強く渡邊さんが言った。
 これが渡邊さんの本音なのだろうか。
 始まったばかりの障害者自立支援法の問題の一部が見えてくる。
 利用者にとって、薄く印象が抜けていってしまった「ボランティア」の存在。時間やお金には換算できない支援がとりこぼされていったのではないか。
 辛くて苦しいことがあったとき、福祉関係者以外の人で誰か相談できる人はいるのか? と私がたずねると、
 「教会の牧師さん」と渡邊さんは私の目を見て答えた。

 道子さんもそうだったのだが、渡邊さんもクリスチャンだった。
 次の週、私はでらーとの新しい施設建設の予定地見学のために来るから、そのとき教会の牧師さんを紹介してほしいと頼んで、その日は渡邊さんの部屋をあとにした。
 この一日でDVの60分テープは5本も回ってしまった。

 渡邊さんも疲労した一日だったろうが、わたしも疲れた。

 帰りの足柄SAで2時間ほど寝てから帰宅したら25時を回った。




   

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