さて、「テロ事件」から既に半月以上が経った。当初の「ありゃー」とか「ひえー」とかいった感嘆詞的思考からようやく脱し、落ち着きつつある頭でこのところ考えているのはやはり、「国」ということである。というのも、この間眺めていた深夜ニュースで、「あなたは国のために命を投げ出せますか」という、まったくくだらない質問を何カ国かの若い人々に対してしていたからだ。スタジオに呼ばれた回答者は、日本人の女の子が「×」をあげ、イスラエル人の男の子が「○」をあげた以外、全員が「△」をあげた。まあ、それはそんなもんだ。だが、それを見ていた中年キャスターのコメントがこうだ。「国のため、という抽象的な質問じゃなくて、家族のためとかにしたら、日本人の回答も違ったんじゃないですかねぇ」。まったく馬鹿げている。きっとこういう人
は「国」が何を意味するのか、あまり考えたことがないにちがいない。
国というのは何のためにありますか、と聞けば、多くの場合「自分(や家族)の生活を守るため」と答えるだろう。あるいは、公共の福祉(つまり消防とか医療とか教育とか)を、自分の代わりに行ってもらうため。それもまあ大ざっぱに「生活を守るため」といえるだろう。しかし、「国を守るために命を投げ出す」というのはどういうことだろう。自分を守ってくれるはずの「国」が自分を危険にさらそうとしているのではないか。「国を守る」ことと「家族を守る」(個人的には「家族」という概念の人があまりいないので、友人とかなのだが)ことはイコールではない。「家族を守る」ためなら「国」なんか二の次、三の次だ。戦争こそが私たちを、私たちの大切なものを、最大の危険にさらすのだから。
国、という概念にとらわれずに、いければいちばんいいと思うが、反面、自分たちの国=政府のやったことの落とし前、てのもつけなければならないのがスジでもある。ツライな。現在(10月2日)、幸いにも武力攻撃はまだされていない。当面、「日本の有権者」(ああ、いやな響きだ)である私たちとしては、小泉首相が繰り出す参戦法案をなんとかしなけりゃ。あんな暴力的な解決しかしようとしない政府=国を持ってしまった責任、というものもないわけじゃないのだろうから。
水垣奈津子
( 派兵チェック編集委員会・「梅香里」東京上映実行委員 )