4.「梅香里」上映会によせて
この上映会に限らず「梅香里」を観たことがある方に、映画や上映会に対する感想を書いていただきました。
院生 涌井 秀人(社会思想史)
「梅香里」を観て
自分達の意思とはほとんど無関係な強大な権力=暴力によって日々の生活を脅かされている梅香里の人々の苦痛と恐怖は、当然ながら、彼らにとって単純な言葉で言い表せるようなものではない。映画の中でその苦痛と恐怖が決して当事者によって直接語られることがないのは無理からぬことである。そしてそれはあたかも、その苦痛と恐怖が、騒音被害や人権問題等のそれ自体非常に深刻な、しかしそれだけとってみれば明瞭なだけに随意に説明可能でもあるもの、したがってまた容易に共感を呼びうるものを越えた、何か理解しがたいものに本質的には発していることを、彼ら自身察しているかのようである。
この理解しがたいものは、アメリカ軍の存在を、と同時にアメリカ軍の駐留を認めている自国の政権からの圧迫を、直接それも激しい痛みをもって日々感じざるを得ない生活の「外部」で生きる人々にとっても、必ずしも無縁なものではないのではないか。もちろん日本人には、かつての侵略と支配がかの国の人々にもたらした傷との関係でその生活を考えることが求められる。我々日本人がこうした歴史的経緯をとりわけふまえねばならないのはもちろんである。けれども、さらに、かの理解しがたいものを、我々の現在の生活を脅かしている諸々の力との関係でも考えようとすることは、必ずしも無理なことではないだろう。一部の場合を除けば梅香里(そして沖縄!)においてほど尖鋭ではないかもしれないが、我々の生活もまた、理不尽で強力なしかも正体のはっきりしない権力=暴力によって日々脅かされている、それは、そこここで感じられることである。
とはいえ、梅香里の人々の苦しみを,我々の苦しみに引き付けて理解しようとするのは僭越なことである。それは、彼らの苦しみを、彼らの立場に立つことによって理解しようとするのが僭越なことであるのと同断である。彼我の間にあるはずの距離を、それらは強引に切り縮めることになるからである。映画「梅香里」に捉えられている問題が真に解決されるためには、おそらく、多くのものの間にある距離が一つ一つ克服されなければならないだろうが、それらが克服されるかどうかは、ひとえに、自分以外のものに対する想像力を、誰であれ発揮することができるかどうかにかかっているのだろう。つまり,自分と直接は関わりがないがさりとて何の関係もないとは言えないもの、いや理想から言えば何か本質的な関係があると感じられるものを、客観的にであると同時に主観的にも理解しようとする、つまり他者を飽くまで他者として認めつつ同時にその他者のうちに他ならぬ自分自身を見出そうとするあの想像力にである。
院生 吉田 行宏(環境社会学)
「梅香里」を観て
国際政治の舞台における政策決定が主として国家間レベルでなされていることの帰結として、梅香里の問題が引き起こされたと考えることが出来る。彼らの運動は、かつての生活を取り戻す運動であり、政治のメカニズムの中に自らの主張を反映させるための戦いとしてとらえることが出来よう。一般的に国家の安全保障問題は地域住民の意思と無関係に策定され実施されるが、国家の安全を守るという大義名分によって、地域住民の生活が見過ごされている現状を重く考えなければならない。
彼らの運動は、韓国社会のなかに米軍基地問題を顕在化させたことを考えると、一定の成果を達成しているように思われる。そして、運動に緑の環境賞が与えられたこと、映画の最後にそのことがクローズアップされたことは、環境(運動)理論や具体的な環境運動の更なる広がりを意味しているといえる。しかし、そのことによって梅香里の米軍施設反対運動の焦点が曖昧になりはしないかとも思うのである。当事者たちは自らの運動が「環境運動」として見られることをどのように受け止めているのだろうか。
経済学部教官 山辺 知紀(経済学史)
「梅香里」の上映会
昨年の暮れ、「梅香里」の上映会に行った。余り集まらないのではないかと不安だったが、学生達の若々しい顔が数多く集まっていたのにはビックリした。テロや空爆、自衛隊の海外派兵、そんな物騒な世の中になったのに、というより皆でそんな物騒な世の中を作ろうとしているのかも知れない時に、こうした地味な反基地闘争をテーマにした映画に人が集まってくる。勿論学生全体から見たらほんのわずかの人たちかもしれないが、しかしどんなに少なくてもゼロではない。その上、来たかったのにどうしても都合がつかなかった人だっていたと思う。
普段はどこかに隠れているような顔でも、何かがあれば現れてくる。これからだってまだまだ知らない顔が現れてくれると思う。そう思うと、苦労してビデオを借りてきて、上映会を用意してくれた人たちに本当に感謝しなければと思う。大変だとは思うが、これからも私達の日常を揺さぶってほしい。怠惰で居眠りばかりしているものにとっては、本当に良い時間だったと感謝している。
経済学部教官 野村 真理(社会思想史)
「梅香里」を観て
イデオロギーの対立や諸国家間の対立といったグローバルな規模での対立のしわ寄せが、一地域の弱い住民に対して先鋭にあらわれる構図がよく理解できた。大もとの対立が解消されないかぎり、梅香里の問題が解決しても、しわ寄せが他所に移転されるだけなのだが、運動としては、小さなところから立ち上げてゆくほかないのだろうと思う。
院生 宋 有宰(社会言語学)
「梅香里」上映会によせて
「これはアメリカだけの戦いじゃないんだ。世界を救う戦いだ。」TBS系のあるニュース番組を聞いていて耳にしたコトバである。発言者がアメリカ兵(ROTC注)とはいえ、錯覚にも程がある。当初は9.11テロの主犯を捕まえるだけのはずであったのが、戦争へ広がってしまったのだ。誰のための戦争なのかは三尺の童子でさえ分かるはずだ。
個人主義という言葉はよくアメリカを連想させる。アメリカを個人主義者の多い国と我々は勘違いしている。自国の利得のために他を圧することが個人主義と言えるのか。初耳だ。私に言わせれば、アメリカは利己主義に富んだ国にほかならないのだ。それを裏付ける例はいくらでもある。
ドキュメンタリー「梅香里」は、アメリカの自国第一主義(利己主義)がよく現れているものである。梅の香りがした梅香里はごみ(武器)捨て場として使われ、もはや火薬の匂いだけが漂っているのだ。自然の破壊は梅香里の住民の生存権を奪ってしまった。「生」は、「死」の単なる反対概念ではない。「生」には、「幸」が伴うべきなので。「幸」の伴わない「生」は「死」に等しい。梅香里の住民は「アメリカ」によって「イノチ生命」を奪われているといっても過言ではあるまい。在庫の爆弾の処理はニューヨークでも何処でも、アメリカ合衆国内で処理して当然だ。