映画「おてんとうさまがほしい」副読本
初版
老いて生きる
〜「映画おてんとうさまがほしい」を語る〜



編著:貞末麻哉子
編集協力:長谷川 健


1995年初版/2001年絶版
凱風社


  編著:貞末麻哉子 による ●まえがき●
  編集協力:長谷川 健 による ●あとがき●
  映画評論家:山根貞男氏 による 書評 ( 産経新聞 書評欄 1995年 4月25日 掲載 )

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初版「老いて生きる」まえがき●(全文)

 半世紀以上を映画界で生きてきた渡辺 生さんは、77歳(1995年1月現在)の今も現役の照明枝師である。茨城県日立市に生まれ育ち実家を守らわばならなかった渡辺さんの妻・坂本トミ子さんとの30数年を経た結婚生活は、東京を中心とする渡辺さんの多忙な仕事の都合で永い二重生活が続いた。
「そろそろ夫帰でのんびり暮らしたい‥‥ 」渡辺さんがそう思い始めた矢先、トミ子さんに物忘れ、徘徊などの病状が現われ始めた。介護のために東京の仕事場を引き払い、渡辺さんは生活の基盤を日立に移した。やがて、アルツハイマー病と診断されたトミ子さんは、入院生活を余儀なくされた。
 その生さん が、16ミリキャメラを担ぎ、たった一人で撮影を始めた。トミ子さんの闘病生活を軸に、介護・看護に携わる人々の姿や、地域にかかわる人々の結びつき、患者を支える家族の問題を映画にしようと考えたのである。そして、一年以上の月日が流れ、100フィート(約3分弱)の撮影済みフィルムが60本を超えたころ、生さんとは十数年来の知己でありプロデューサーを職業とする私は、この映画の仕上げをお手伝いするために制作委員会の結成と参加を呼びかけた。
 そんな次第で、1994年1月、映画『阿賀に生きる』を監督した佐藤 真さんによる編集作業が始まった。
 その過程で、作品は、生さんとトミ子さんの夫婦像に焦点を当てたものへと徐々に姿を変えながら、1994年9月、撮影開始より約3年の歳月を経て、記録映画『 おてんとうさまがほしい 』として完成した。
 ところで本書は、夫婦愛のあり方や、老人問題を考えるきっかけになることだけを意図したもの( そう読まれることは大歓迎だが )ではない。『おてんとうさまがほしい』という映画の副読本という性質も持ち合わせている。生さんという人物と、この映画の存在を抜きにしては本書は成り立ちそうにない。

[そこで、映画をご覧になっていない読者のために、ほんの少し、映画の概要をご紹介しておきたい]

 この映画には、深い〈ものがたり 〉は潜んでいるが、ストーリーはほとんどない。大方の時間軸はあるけれど、正確な時間経過をたどったものではない。映画もまた本書と似た牲質を持ち、痴呆症の病状を的確に描き、看護・介護のあり方に対して適切なアドバイスを与えるという役割を担うものではない。映像は綿々と、妻に降って湧いた日常の変化と、ファインダーの奥に揺れ統ける夫の思いを写し出す。時には若き日の妻の写真をめくり、元気な頃の妻との生活を振り返る。そして訥々と語られる生さん自身によるモノローグが、その日々の想いを伝えてくる。
 そこには不思議と、暗澹たる気待ちばかりが横たわっているのではなく、妻の病を通して広がった新しい出逢いや、生さんの人生との向き合い方が姿を現してくる。『 老いて生きる 』という命題の前にどう寄り添ったらよいのかを、映画は静かに語りかけてくるのである。

 さて、本書の内容に戻るが、大さく分けて二つの柱がある。ひとつは、映画の編集段階で行った、合計8時間以上にわたる生さんへのインタビューから構成した 生さんとトミ子さんとの二人三脚の闘病記録。もうひとつは、映画制作における葛藤を背景に、生さんと十数年にわたってお付き合いのあった私が、大変僭越ではあるが、〈渡辺 生 〉という人の生き様を書き綴らせてもらった文章である。本書は、この二つが交互に顔を出すという構成をとっている。また、長谷川 健さんをはじめ、本書の編集に協力してくれた方々の尽力により、この二柱を補足する事項として、多くのインタビュー記事やコラム記事を掲載することができた。
 くり返すが、本書の目的は、映画作りの裏話を披露することでも痴呆問題をめぐる知識を広めることでもない。痴呆症を患う妻を抱えたひとりの男がキャメラを握ることによって、いかに自分の運命に向き合い、妻と生きようとしたか。おそらく痴呆の問題も、夫婦とは何かという問題も、そして映画における表現とは何かという問題も、生さんの行動をたどったあとにこそ、より強く私たちの心に焼きつくに違いない。

 多くの方々に、生さんの映画『 おてんとうさまがほしい 』をぜひ観てほしいと熱望すると同時に、本書が、老人を取リ巻く個々の「 問題 」を超えてより一層広がり、先の見えにくい日本の中で、生きることへの勇気に繋がれば、と切に願うのである。

1995年1月  貞末麻哉子   


 初版「老いて生きる」あとがき●(全文)

 「 アルツハイマー病にかかった奥さんをフィルムに撮ってきた照明技師さんがいて、そのフィルムを一本の映画にまとめる仕事を手伝おうと思っている 」映画監督の佐藤 真さんからそんな話を聞いたのは、一昨年(1993年)の冬頃だろうか。その時僕は、へえ、何か暗くてしんどそうな話だなあ、という以外にさしたる感想も抱かずに話を聞いていたように思う。なにせ、老いだの痴呆だのという世界は、末だ20代の僕にはぴんとこない話だったからだ。
 そんな話も忘れかけていた去年の五月に、佐藤さんと本書の出版を引き受けてくれた凱風社の小木さんとの出会いから、この映画の副読本を作ろうというアイデアが生まれた。そして僕のところに突然、その進行役としての白羽の矢が立った。当時やることもなくぶらぶらしていた僕は、一も二もなくその話に飛びついた。
 当時、この『 おてんとうさまがはしい 』は、まだ編集作業の途上にあった。僕の最初の仕事は、末だ方向性を決めかねているフィルムを見ることと、映画に挿入するために録音された、渡辺 生さんに対する計8時間以上に及ぶインタビューの書き起こしを読むことだった。そのうえで、佐藤さんとプロデューサーの貞末麻哉子さんから、映画は渡辺さん夫妻に焦点を絞った私的なものになりそうなので、それを補足するような、高齢者に対する福祉と医療の間題が見えてくるようなブックレットを、小木さんと相談しながら一ヶ月ほどでつくってほしいと言われた。
 僕が賢明で、本づくりの経験があったなら、自分の手に余る仕事だと判断して断っただろうと思う。しかし僕は、ハイハイと笑顔で引き受けてしまった。一ヶ月の期限は何が何だか分からないうちに過ぎてしまった。奥さんの坂本トミ子さんが入院している日立梅ケ丘病院をはじめ、渡辺さん夫妻に関わったさまざまな人々のあいだを、何かに引きずられるようにして回り、口ごもりつつ、とんちんかんな質問を浴びせるしかなかった。アルツハイマー病についての知識もかじってみた。結局、借り物の知識だけではどうにもならないという当たり前の事実を再確認しただけだったが。
 わずかな手がかりは、インタビューでの渡辺さんの言葉が持つ不敵なまでの力強さだった。そこには、とても七十代後半の老人の言葉とも思えない、抜き身のナイフのような緊張があった。現役の照明マンとして仕事を続ける傍らで痴呆症の奥さんを支え、そのうえ未経験の16ミリキャメラをかついで映画を撮ってしまう。何がこの人を支えているのだろうか。このことが、弛緩した若者である僕が持った、唯一の問題意識だった。つまり、僕が本作りと関わることができるとすれば、その点でしかないのだ。
 悩んだ挙げ句、渡辺さん自身の言葉で紡いでいく本にしようと決めた。こうして本の方向性は大きく変わっていき、一ヶ月というタイムリミットはなし崩し的に消えていった。それからというもの、8時間に及ぶインタビューの言葉を分解しては組み立て、分解しては組み立てという果てしのない作業が始まった。
 ところで渡辺さんは、インタビューの中で、自分が撮影を始めた動機をきわめて簡単に控え目な言葉で述べるにとどめている。僕がもっとも心打たれるのはそのくだりだ。なぜ、キャメラを握ったのか? 佐藤さんの言葉を借りれば、「やむにやまれぬ」思いに駆られてキャメラを握ったわけだが。
 もちろんキャメラを握ったからといって、トミ子さんの病気そのものが癒えるわけではない。しかし、映画を撮影するという行為によって、それ自体は不毛な病というものが、いかに渡辺さんたちの生を輝かせたかは、本書をお読みになった方ならばお分かりになるだろう。今回の本作りを通して、僕がわずかでも学んだことがあるとすれば、問題は病そのものではなく、いかにそれに対処していくかにあるということなのだ。言い換えれば、外部から突然訪れた残酷な偶然を、自らの人生の必然にまで高めることができるということだ。
 そしてもう一つ、渡辺さん自身、今回の撮影の最大の収穫は「人との出会い」だと言っている。この映画は完成するまでのあいだに幾多の出会いを生んできた。思えば、渡辺さんと貞末さんが十年以上前に出会っていなければ渡辺さんと佐藤さんの出会いはありえず、今のような形で映画が完成することもなかっただろう。もちろん、佐藤さんと小木さんの出会いがなければ、貞末麻哉子さんのこの本も生まれなかったし、僕も参加することがなかっただろう。だから僕は、この本でも出会いの場を作ろうと考えた。つまリ、貞末さんと渡辺さんの、世代を越えた出会いを作りだそうと考えた。こうして、僕が渡辺さんへのインタビューを再構成した部分と、貞末さんの文章が交互に現れる形で、本書は出来上がった。
 [まえがき]にもあるように、本書の趣旨は、痴呆症や老人間題に対して何らかの情報を提供することではない。また、アルツハイマー病の症状についても、渡辺さんの言葉以上の情報を提供するものではない。しかし、本書はいわば、トミ子さんの病気をきっかけとして、渡辺さんの行動を通して伸びてゆく、いくつもの出会いの流れが刻まれたものだとも言える。そして、その流れの末端で、一年前まで何の縁もなかった若造が今、睡眠不足の赤い目をしばたたかせながらワープロに向かっている。
 本書の中で渡辺さんは「人と人とのつながリ」という言葉を口にしている。渡辺さんが何を思ってこの言葉を口にしたのかは、人生経験も、渡辺さんとの付き合いもごくごく浅い僕にはまだよく分からない、でも、僕は編集をやり終えた今、個人の病や死すらも越えて綿々と連なっていき、思いもよらずにかけがえのない時間を刻みつけていく、なんとも名状しがたいエネルギーの流れこそが「人と人とのつながり」なのだと勝手に解釈している。映画には、そういうエネルギーがあることが実感されるのだ。
 だから僕は、だれよりも渡辺 生さんと坂本トミ子さんにあらゆる意味で感謝の意を捧げたいと思う。

 本書の誕生に当たっては、岡田正勝院長先生と企画部長の山崎誠一さんをはじめとして、日立梅ケ丘病院のみなさんからひとかたならぬお世話をいただいた。また、すべての方々のインタビューを掲載することはできなかったが、ライフ・ケア・ひたちのみなさん、日立市社会福祉協議会のみなさん、日立市高齢福祉課の小角和子さん、患者さんの御遺族でいらっしやる小野トミ子さん、生さんの盟友である滝口 悟さんには取材で大変お世話になった。お名前のみを掲載し、感謝の意とさせていただきます。最後に、本書の誕生を辛抱強く見守ってくださった凱風社の小木章男さんと、装丁を手がけていただいた蔵前仁一さんに、心からお礼申し上げます。このように、多くの方々のお力添えをいただいて完成した本書『 老いて生きる 』と、映画『 おてんとうさまがほしい 』が、さらなる 〈人と人とのつながり 〉 の源となることを願ってやみません。

1995年1月  長谷川 健