MESSAGE 21 『 母たちと 』 

 今から28年前、『横浜市立中村小学校訪問学級』に30人の重度の障害のある子どもたちと家族が集まった。訪問学級は3年間の訪問教育のなかで、どんなに障害の重い子どもたちにも学校という場で教育を行えないものなのか、ということを考えた一教諭の考えを教育委員会が取り上げ実施したものだった。
 重症心身障害児と呼ばれる子ども達は、学校に通うという発送は皆無であった当時、横浜市が取り組んだこの実践は、画期的なことであった。
 「学校へいらっしゃい」という呼びかけに、大喜びした家族と同時に当惑した家族があったのも当然であった。ある父親は「うちの娘は読み書き算盤、何もできないよ。先生達、何を教えるの?」と率直に聞いてきた。重い障害がある子ども達は、訓練センターからも訓練不可とされ、病院に通うことが唯一の社会との接点という生活を送っていた。そんなみんなが、訪問学級という場で出会ったのだ。本人はもとより、家族にとっても大きな出来事であった。やっと社会参加ができたといっても過言ではなかったと思う。なかには病院で出会っていた人もいたが、大方の人達は学級が初対面であった。「座れて良いわね」「上手に食べれるのね、羨ましい」「よく分かるのね」等、他の人の息子や娘とわが子を比べる会話がしばらく続いた。
 一人一人の人格を大切にする教育が、一般校の中に建てられた、プレハブ校舎と絨毯を敷いた教室で始められた。子供たちに仲間ができた。母親達は、学級に特別に置かれた母親学級(ソーシャルワーカーとして日浦が担当)に毎週参加することを半ば義務付けられ、障害のある子どもの教育の大切さ、家族の役割を学んでいった。毎週顔を会わし、話し会うなかで、母親たちにも仲間ができた。最初の夏休みが明けた9月の始業式の日、久し振りの会話が弾んだ後、ある母親がこんなことを突然言った。「夏休みは長かった。暑い日が続くなか、娘が眠らなくて不眠が続き、くたくたになった。ぐずる娘を車に乗せドライブにでたら、海の側に来ていた。いっそこのまま海に飛び込めば楽になる、と思った瞬間皆さんの顔が浮かんだ。弱虫と言われたくなくて帰ってきたの」みんなしーんと静かになり、無言になった。何分たったのか、ある母親が口をきいた。「海はやめなさい、水膨れになるから」すると次の母親が「では、列車は?」「あれは汚いよ」「ではガス栓は?」「あれは爆発するわよ」「車の排気ガスは?」「あれは鼻の穴が真っ黒になるんだって」・・・・・・いくつ死に方が出ただろうか。その後またしばらく無言が続いた。沈黙の後、「いい死に方って無いじゃん。生きようよ。がんばろうよ」と一人の母親が、みんなの顔を見回しながら、強い口調で言った。皆、黙ったまま頷いていた。
 こんな時間があって、母親たちの仲間意識、同志意識が強くなった。通学途中「じろじろ見られて嫌になった」という母親に、別の母親が「睨み返してやりなさいよ」と言ったり、親戚から嫌みをいわれたと嘆く母親に「私も同じことをいわれたよ。気にしない気にしない」と励ましたり、母親学級は次第に母親たちが遠慮なく本音を吐ける場所になっていった。
 障害のある子どもをもった母親が最初からいるわけではない。母になって突然障害のある子どもの母になるのである。嘆き、戸惑い、悲しみ、混乱の中から、命を守りながら母になっていったのだ。そんな母たちが話し合いのなかで、またはふと口にした言葉のなかに困難をくぐり抜けてきた母だから言える言葉を聞き、私はどれほど心を動かされたかしれない。
 学級時代のある日、校長が見学の人達を案内してきた。校長の説明を聞きながら、子どもたちの様子を見た一人の女性が「うちの子どもでなくてよかった」と声にした。その声を母親達が聞いた。その無神経な発言に私が動揺したその瞬間、側で母親の一人がのんびりとした声でこう言った。「ほんとうによかったですね。でもその後どうしたら良いか考えて下さると嬉しいのですが」。その言葉の響きに何の気負いもなかった。「無神経な」と感じた私の心の中に、逆に「同情」という言葉があったのだ。お互いの立場を正直に認め合うところから出発しよう、「本当によかったですね」という言葉が私と母親達の距離を縮めてくれた。
 学級で初めて宿泊訓練を行ったときのことも忘れられない。初めて学校に宿泊するのだ。教師達の緊張は大変なものだった。主任の教師は一睡もしなかった。明け方発作があると聞いた児童の枕元で、3人もの教師が1時間以上顔を覗きこんで、今か今かと気を張りつめていた。(結局発作はなかった)やっとお昼になり、迎えにきた母親たちとの対面となった。ひとりの母親が息子に向かって両手を広げ「まあ、大きくなったこと」と大きな声で呼びかけた。その大仰な表現に全員で大笑いしながら、生まれて初めて子どもと離れた母親が一晩という時間をどれ程長く感じていたか、もしかしたら不安で眠れない夜を過ごしたのではと推測されて、母と子の強い結びつきと愛情をあらためて感じたものだった。
 学校時代から『朋』という地域作業所の指導員を3年経験し、念願の通所施設での生活に移って、私と母親たちとは、メンバーの母親と施設長という関係になった。そして定員40名の通所施設で、年々出会うメンバーと母親の人数も多くなった。最初の訪問学級の出会いから数えて28年、何年間を共に過ごしたメンバーと母親はかるく100名を越える。最初は私より年長の母親が多かったのが、次第にこちらの方が年長になり、今では私の娘といってもよい若い母親と出会っている。時代も移り変わってきた。学校ですって?と目を丸くしていた家族が、今では養護学校ではなく地域の学校を選びたいという。そしてそれが可能になった。28年前の母親達も変わった。化粧っ気もなく、お洒落など無縁だという風情であった人達であった。私の当時の記録ノートに、「今日、Tさんが初めて口紅を付けてきた、嬉しい」という記述がある。その同じ母親達が、今では髪を茶色に染め、ロングスカート、赤いセーター、ネックレスに大きな指輪、という昔より若返って明るい。何より違うのは、もう孤立をしていないということではないだろうか。仲間がある。そして、わが子の生活をより充実したものにと、目の前の瓦礫を取り除きながら、共に歩いてきた充実感がある。ある母親が「私たちの人生って中身が濃いね」といったことがある。
 学校から地域作業所をつくり、日本で初めて重症者のための通所施設『朋』をつくる運動に取り組んだ。資金集めのため、露天商のおじさんの手伝いを日暮れまでして、日当をもらったことも忘れられない。「遠くの親戚より近くの他人」という諺があるが、立場を同じくしながら、これほど多くの時間を共有してきた人達も珍しいと思う。本当に中身が濃かったと実感する。『訪問学級』が『母親学級』をつくり、母親の存在を家族のキーパーソンとして重要だと考えたのと同様に、『朋』でも家族、分けても母親と私たちは車の車両だと考えた。『朋』には施設には珍しく家族室というものがある。和室と洋室とキッチンセットが用意され、母親達が自由にそこを使い、バザーの作品作り、趣味の手芸、他愛ないおしゃべりを楽しみながら、様々な活動を行っている。私は他愛ないおしゃべりが好きである。さしたる意味はなくても、言葉を交わすことで孤立感を和らげ、知らず知らずのうちにお互いの心の重なり合う瞬間が生まれると思うからである。息子を亡くし、『朋』に通わなくなったある母親は、もう一度、息子を連れてあの家族室で、皆とおしゃべりがしたいと言う。同じ体験を共有しながら、時には意見が食い違うことがあっても、心の底ではいたわりあっている仲間とのおしゃべり、そのおしゃべりが長く続くようにと祈っている。
 『朋』になって、作業所の仲間に加えて、新しくその年に卒業した養護学校からの新人達が加わった。その新しい仲間にKさん親子がいた。彼女の一人息子と、私の次男の生年月日が全く同じ、昭和42年6月23日であることを発見した時の驚き。そして私とKさんも同じ年の生まれ、不思議な縁であった。Kさんと私とは同じ日に横浜と広島で母となった。名前までが「てつや」と「たくや」、まるで双子のような名前が付いていた。当然同じ年に成人となり、お互いにおめでとうと言い合った。以来14年、息子達は30歳を越えた。そして私たちも還暦を過ぎた。てつやさんは今車椅子に乗り空き缶回収のグループに入り、地域を周り、多くの知人を作っている。Kさんはかっての職業、美容師を生かし、障害のある人達やその母親、お年寄りの髪のカットをし、収入を全額法人に寄付している。そして更に、法人の家族会の役員を引き受け、息子達の現在の生活がより充実したものになるように、そして将来の生活設計のための勉強会、資金集めと他の母親たちのリーダーとして活動をしている。出会って間もなくのことであった。母親たちの会合で、私が施設長として話したおりに、彼女が「それは施設側の考えなのか」という質問をした。母親達と一緒に歩いてきた私にとって「施設側」という言葉に違和感があった。家族側と施設側という対面ではなく、両者は並んで歩いているのではないか、共に手をつないでメンバーの幸せを考えて行くのではないか、とそれまでの私たちの活動を伝えながら問いかけた。今度は私の考えに彼女が違和感をもった。両者は立場が違う。並んでは歩けない、というのがそれまで学校側と家族という、対面で話してきたKさんの考えであった。Kさんの言葉の端々から、その立場に立ってみなくては分からない、障害の子どもをもたない私の言葉はきれいごとだという思いが伝わってきた。その後も話し合いのなかで、何度かお互いに違和感をもった。ある時どうしてもその違和感がしこりになり、お互いにお互いの言い分をぶつけあったことがあった。原因が何だったのか思い出せないところをみると、原因は些細なことだったのかもしれない。しかしそれがきっかけで、お互いのそれまでの違和感が吹き出した。彼女も私も、気が強いわりには涙脆い。泣きながら言い合った。いくら横に並んだ関係だと私が力んでみても、簡単にそうだと受け入れられるはずはなかった。障害があるこどもをもった時、母親達は「なんで私が」、「なんでこの子が」と苦しむ。そしてこの気持ちは誰にも分かって貰えないという、周りの人達全てを敵にまわしたような孤立感をもつのだと思う。いったん人への信頼をなくした人達が、再び他人への信頼を回復していくプロセスを、私たちは共に歩むのである。簡単に関係がつくれるものではない。大人の言い合いは気まずさを残すものだが、ぎこちなさはいくらかあったものの、なぜか二人とも日常の挨拶程度の話がきっかけで笑顔を取り戻すことができた。そして私たちのプロセスが始まった。息子や娘の将来を考える委員会を共にもち、グループホームをつくり、診療所をつくり、資金集めのバザーをし、その時々に意見を言い合ってきた。他愛ない話で大笑いしたり、怒ったり泣いたり多くの時間を共有した。数年経ち、気が付いたら彼女から「施設側」という言葉が消え、私からも違和感が消えていた。いま、彼女は、法人は私たちと同じ考えだと後輩に声を大きくして話してくれている。昨年の6月23日、この日がなんの日かすっかり忘れていた私に「おめでとう」と彼女が声をかけてきた。怪訝な顔をする私に「私たちの息子の誕生日。てつやができないところは、たくやくんにがんばってもらってよ」と彼女はさわやかに?にこやかに話してきた。その顔のなんと晴れ晴れとしていたことか。
 てつやさんはおしゃれである。母親がおしゃれだから、いつも素敵なファッションに身を包んでいる。髪を柔らかく茶色に染めている。言葉は喋れないが、イエスとノーは気が向くときちんと手を挙げて答えてくれる。少しでも歩けるうちは歩かせたいと、普通なら5分でこられる自宅から、母親が後ろから支えて歩行器で、ゆっくりゆっくり、何分もかけて同じ法人のサポートセンター『径』に通ってくる。朝9時半、今日も母子で通所してくる姿がある。ここにも見事な母がいる、私は心の中でつぶやくのである。



製作:「朋の時間」製作委員会
配給:「朋の時間」上映委員会

(2003年度公開作品/ビデオ・長編ドキュメンタリー/カラー/123分)



「朋の時間〜母たちの季節〜作品内容上映ビデオご購入 などについての お問合せ

(ビデオ販売代行
■マザーバード・ファクトリー■




社会福祉法人 訪問の家 の公式ホームページは




このオフィシャルページは 朋の時間 上映委員会事務局 が公式サイトとして作成し、
2005年より、マザーバード・ファクトリーが管理しています。


■ (C)2005 朋の時間 製作上映委員会 All rights reserved ■
Any reproduction, duplication, or distribution in any form is expressly prohibited.


このウェブサイトの内容を許可なく複製して別のWEBやメディアに転載することはできません
またリンクを貼っていただける場合はご一報いただけますようお願いします
写真や音・文章・素材等を二次使用される場合は、
製作上映委員会に著作権のないものもたくさんありますので必ずご一報ください




オフィシャルホームページの HOME に戻る
.