MESSAGE 21 『 幸せという言葉 』 

 1月13日、朋の成人の祝いが終わりました。今年は女性ばかり3人がみんなからの祝福を受けました。可愛くて美しい3人の娘さん達、一人は母親の手縫いのやさしくそして華やかなドレス、一人は名前が縫い込まれたショールを肩にかけ、三つ編みの髪を可愛く飾り、一人は淡い萌葱色と鴾色の振り袖姿。まさに絵のような美しい女性3人が、それぞれ綺麗な色の車椅子に乗ってみんなの前に並びました。その3人の一人、着物姿のゆきさんの晴れ姿にはよりわけ職員一同大きな感慨がありました。私自身心の中で何度も「よかったね。よかったね」と繰り返していました。祝いの会にはそれぞれの家族に加えて、ゆきさんには遠く岩手県から伯父、叔母の方々もかけつけてみえていました。
 ゆきさんと私たちの出会いは2年前です。養護学校から卒業後の進路先として朋が適当だと紹介がありました。聞けば、彼女の障害の発症は中学二年生の時だとのことでした。小さいとき川崎病を患ったほかは大きな病気も無かったと言うことですが、中学2年生で失禁があり、両親がおかしいと、子ども医療センターに受診、脳の変性疾患ということをドクターから告げられたということです。彼女の病名が大変珍しいニューマンピックという病気だとはっきりしたのが高校2年生だと聞きました。この病菌の進行は早く、高校は養護学校に通うという状態になったのです。私たちが出会った卒業間近の3月には立つことができていたのですが、朋に通い始めた4月にはもう車椅子から立ち上がることが出来ませんでしたし、食事も誤えんが多く、肺炎になることから、半年前に胃瘻の手術をしていました。言葉はもう失われていましたが、それでもやっと名前は? と問うと「ゆき」とこたえることができたのが私たちの聞いた声らしい最後の声でした。しかし、こちらからの問い掛けには表情で応えてくれ、夏ごろまではグループで一番綺麗な人は? という冗談に、不随運動で大きく揺れる手で一生懸命自分の顔を指し皆を笑わせてくれたり、「あっち向いてホイッ」というゲームにも参加していました。応えてくれる表情も次第に目だけの動きになり、私たちは彼女の微かな笑顔を探ろうと懸命に話しかけたものです。
 家族は両親と兄が二人、一家でゆきさんを心から愛しみ、あれよあれよという間に進行するゆきさんの病気に戸惑い、心を砕いていらっしゃる様子に、私たちもどう力づけてよいか、言葉を探す毎日でした。お父さんの職業が工務店経営という自営業だったこともあって、ご両親で朋にゆきさんを送ってみえることも多く、私たちはお父さんともよくお話をしました。お父さん自身が両親を小さい頃亡くされているということ、岩手県の出身で親代わりをしてもらったお兄さん達は岩手県にいらっしゃるということ、ゆきさんのお母さんが韓国の方なので自分がしっかり守ってあげなくてはと優しい心遣いをなさることなど、照れ屋ではにかみながらの咄々とした言葉の中から誠実な人柄がしのばれ、出会って1年足らずの年月の中で私たちはとても仲良しになりました。お母さんも字を書くのは苦手と聞きましたが話し言葉は全く不自由ではなく、お父さんの話しに笑顔で相槌を打つ様子からとても仲のよいご夫婦という印象を受けていました。しかし話の中で度々涙ぐまれる様子から、お母さんが「私がゆきの身体の状態に慣れるともう次の状態に進んでしまう。そんなゆきを追いかけるのに精一杯。」と懸命に悲しさを押して気持ちを強くもとうとしてらっしゃる様子に心が痛みました。ゆきさんの症状はそれほど進行が早かったのです。
 大きな病気、肺炎にならないようにと願っていたのですが、昨年の7月肺炎になり市民病院に入院しました。全身状態が弱っていっているなかでの肺炎ですから、やはり簡単には全快とはいかず、入院は長引きました。そんななかで症状は進み、痰が多くでて吸引は頻回となり身体も急激にやせていきました。両親は毎日病院に付き添い「ゆき、ゆき」と話しかけ、お父さんは少しでも娘に気持ちのよい時間をもたせたいと、通り一遍な看護に当たる看護婦を叱り付けるということもありました。そんなお父さんにはらはらしながら、でも内心はお父さんと同じ思いのお母さんだったようです。早く退院させたいと願う両親に退院の話が担当医から聞かれない毎日に、ご両親の苛立ちが伝わってきました。ご両親の心にはこのまま病院で死を迎えるのはたまらないという思いがありました。思い切って退院を願っていることを担当医に告げたのに対して、医師から出た言葉は「気管切開をすれば自宅での看病の可能性がある」というものでした。全身麻酔による気管切開の手術は身体状態が衰弱しているだけに危険を伴うことも医師から告げられました。ご両親はこのまま病院にいて弱っていくゆきさんを見続けるのは嫌だという思いに加えて、お母さんにはもう一つの心からの願いがありました。それは成人の祝いをしてやりたい、着物を着せてやりたいというものでした。「ゆきの好きな黄色の色が入った着物を着せて二十歳を祝ってあげたい、きれいな姿が見たい」というお母さんの言葉をなんとか形にしてあげたいと私たちも強く思いました。ご両親は気管切開をして自宅に帰る道を選ばれました。きっとゆきさんも自宅で家族に囲まれての最後を望んでいると考えてのことですが、危険を伴う手術だけにどれほどの迷いの末の決断だったことかと私たちも心から手術の成功を祈りました。
 最初の手術は、簡単な気管切開だったために痰が吹き出す状態になり、ゆきさんにはプラスにはなりませんでした。二度目は喉頭分離による手術を行い、やっと自宅での吸引が可能になりました。ほとんど骨と皮という表現が適当なほどやせていたゆきさんがよく二度の手術の耐えたと今でも思います。11月半ばに退院、待ち望んだ自宅での生活が始まりました。入院中に看病の方法を学んだお母さんが24時間の看護に当たる毎日になりました。お母さんはゆきさんに成人式に着る着物を買いました。
 それから毎日、お母さんはゆきさんの枕元で自分でその着物を羽織り、「ゆき、朋の成人の祝いでこの着物を着ようね」と話しかけました。ゆきさんはその時着物を羽織る母をじっと見つめていたと聞きます。何回か朋診療所に受診、朋にも顔を見せてくれましたが、みんなの活動の中に入ることは難しく、やせて更に大きくなった彼女の目を見つめながら、なんとか成人の祝いができるようにと祈る毎日でした。お正月を無事終え1月13日、朋の成人の祝い。やっとやっとたどり着いた私たちの喜びに、何とか無事に、そして想い出深いものに、という緊張が加わりました。
 私たちの成人の祝いは毎年午前中町内会の方たちがお餅をつきにきて下さり、家族会の方々が紅白餅にしてくださいます。みんなも成人になる人達を中心にホールで「よいしょ、よいしょ」と掛け声をかけお餅をついて楽しみます。そして午後、毎年手伝って下さるファンケル化粧品のプロの方たちに美しくメイキャップしていただき、それぞれが晴れ着に着替え、記念撮影をし、近所の方たち、ボランティアの方たち、成人になる人達の縁の方たち、家族の人達の集まるホールで心を込めた式典が行われます。今年の成人の祝いは冒頭に書いたように始まったのです。この式典のハイライトはなんといっても家族の方たちの挨拶です。ゆきさんはお父さんが挨拶をなさいました。「胸が一杯で、言葉が上手に出て来ません。岩手弁で勘弁して下さい」と始まったお父さんの挨拶でしたが、大きな涙をこぼしながら「親バカと言われるかも知れないが、今日のゆきはほんとうに綺麗です。ゆきも幸せです。私も幸せです」と言われた言葉が私のこころに大きく残りました。「ゆきも幸せです。私も幸せです」という言葉のなんという重さ。この言葉のどれだけの思いがこもっていることかと涙がこぼれました。人生には真っ暗闇というものはない。どこかに光はある。暗闇の連続はない。いくらつらい日々であってもどこかで人間はスポットのように、例え瞬間であっても「幸せ」を感じることが出来るのだと、人間の心の強さと深さに感動しました。そしてその「幸せ」は人が自分が一人ぼっちではないと感じるとき心に差す光なのだと思ったのです。ホール全体に満ちた100人を越えた人達の「おめでとう」の声と優しい心、このみんなの「愛」をしっかり携えて歩いて行ってほしいと願いました。
 成人の祝いが無事済んで、ゆきさんは更に弱っていきました。朋のドクターがもう入院が必要ではないかと話されましたが「入院は良い。このまま自宅で過ごさせたい」というのがご両親の気持ちでした。朋診療所のドクターが看取ることを約束してくれました。祝いの日から9日目、22日の午前9時に診療所に電話が入りました。ドクターと看護婦が訪れた時はすでに呼吸を無かったそうですが、心臓マッサージをして少しの間蘇生、11時過ぎにご両親、長兄、診療所、朋の職員数人に看取られて静かに息を引き取りました。
 私が報せで訪れたのは12時近くでしたが成人の祝いで着た着物に身を包み、お洒落が大好きだったからと職員でお化粧をし、きれいにマニュキュアされた指を組んで横たわるゆきさんの顔はそれはそれは美しく、「清純」という言葉が人の姿になったと感じたほど、清らかでした。お父さんが「ゆき、こんな美しい娘をもたしてもらってよかったのかなぁ。僕が父親でよかったか、ゆき。」と語り掛けていらしたのが今も心に残っています。お母さんは「ゆき、お母さんはゆきの母親で幸せだったよ。多くの人達の心をいただいて本当に幸せだった。」とおっしゃいました。
 成人の祝いに着物を着せてやりたいと毎日自分で着物を着てゆきさんを励ましたお母さん、その思いに懸命に応えたゆきさん。成人の祝いへの出席は彼女の最後の精一杯の親孝行、ありがとうだった気がします。
 ゆきの人生は短かった、お別れをしたいと言う人はそんなに多くないから葬儀は家族だけでとおっしゃるご両親に、多くの人達がお別れをしたいと思っていますと申し上げ、葬儀場で葬儀を行っていただきました。こんなに多くの人がゆきを・・・・・・・・・とご両親が驚かれるほど多くの人達がお別れにきました。分けても、中学校で同級だった青年達が泣きながらお焼香をしている姿にご両親、二人の兄が泣きかがらありがとうありがとうと頭を下げていらした姿に胸がいっぱいになりました。お兄さんの一人が「ゆきが朋に通いだした時、どうして妹がここに来なくてはいけないのかと腹が立った。でも命は皆同じ。朋の人達も家族の人達の大切な人なんだと気がついた。僕は間違っていました」と葬儀のあと話してくれました。
 ゆきさんが亡くなってすぐ、お父さんは遺体のの病理解剖を申し出られました。日本に何人もいないと言われるほどの難病だったゆきさんが、今後、同じ病気の人のお役に立てばということでした。きっとゆきも望んでいると思いますとおっしゃったお父さんですが、ご両親にとってはどれほど大きな決断だったかとその勇気にも頭が下がりました。
 先日お父さんからお手紙をいただきました。そこに次のような文がありました。「人間は幸せな人はそんなにこの世の中にいないと思ってきました。しかし、家族のため、仲間のため、お互いの幸せをつくるため、出会いを大事にして暮らして生きていけば、やがては自分が世の中に救われるとゆきの人生を通して感じています。ゆきの言葉に従えば、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありの心境です」
 ゆきさんは言葉がまだ話せるとき、仕事から帰り「ああ疲れた」とお父さんが言うと「お父さん、苦あれば楽ありだよ」とよく言ったそうです。いつどこで覚えたのだろうとご両親はおっしゃっていらっしゃいましたが、このゆきさんの言葉でいつも一家がなごやかになったということです。本当に、人生「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」何時も明るく、Vサイン大好きだったゆきさん、ずっと私たちと一緒にいてくれると信じています。



製作:「朋の時間」製作委員会
配給:「朋の時間」上映委員会

(2003年度公開作品/ビデオ・長編ドキュメンタリー/カラー/123分)



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