MESSAGE 21 『 人生のクライマックス

1. 出会い
 私と宇留野さん一家との出会いは今から30年前、訪問学級が出来た時です。之義さんは9歳、訪問学級開設時にはすでに訪問教育を2年間受けていましたので3年生で入学してきました。障害名は結節性硬化症。バス、私鉄電車を2線乗り継いで、片道1時間近くかかる道程を、お母さんに手を引かれ歩いて通学してくる、色の白いほっそりした可愛い男の子でした。時々は7歳下の弟も一緒に登校してきましたから、小さな子の手と之義さんの手と両手で引いての通学は大変だったと思います。今でも弟の秀明くんの長靴を履いた可愛い姿が目に残っています。家族は両親と父方の祖父母、本人と弟の6人、当時のお母さんの年齢は35歳でした。当時の一家の実権は祖父母にあり、特にお母さんからは姑に当たる祖母が一家をきりもりしていました。
 母親学級でお母さんの宇留野さんはよく居眠りをしました。時には机に俯せになりぐっすり眠り込むということもありました。そんな彼女を皆はそっと眠らせておこうと目と目で合図しながら優しく見守ったものです。それは彼女がお姑さんからまだ家計の財布を渡してもらえなくて、なんとか自分の自由になるお金が欲しく、和服の仕立ての内職を家族が寝静まった後していることを知っていたからです。「疲れているんだね。ここで少しでも休ませて上げようよ」というのが仲間のお母さん方の気持ちでした。

2.学級のなかで
  当時、之義さんは動作が比較的敏捷で、高い所に上るのが好きで、棚の上に乗ったり、目を離すと私たちの視界から消えて慌てさせたり、トイレもしゃがんで用をたしたりしていました。ある時、突然彼の姿が長時間見えなくなり、大騒ぎになったことがありました。訪問学級のすぐ側に中村川が流れています。まさかと思いながら、その川面を覗くのが恐しくてみんなが尻込みしたのを思い出します。一人で橋を渡り、その先にある病院の中を歩いている所を警察で保護、無事な彼の呑気な顔を見た時は、皆泣き笑いの表情になったものです。一度は校舎の2階に一人で上り、発作で空缶の中に顔を突っ込み、血だらけの彼を病院に担ぎ込んだこともありました。6針縫う怪我でしたが、麻酔無しに縫合したにもかかわらず泣き声もあげず、身動きさえせず、静かに横たわっている彼に、障害を知らない医師が「我慢強い子だね。えらい、えらい」と感心してほめてくれる言葉がとても悲しかったものです。障害が重く、痛みに鋭敏ではないことと言葉がないことに胸が痛んだのです。
 之義さんはよく怪我をしました。動きまわるのですが、足元がおぼつかないことと、痛覚が鈍感であることと、訴える力が弱いということが原因でいずれも発見が遅れました。右足のふくらはぎが腫れている事を、ある日お母さんが発見、熱をもっていることから外科医に連れて行った所、レントゲンで縫い針が入っている事が分かり即手術ということもありました。お母さんの和裁箱から畳に落ちていた縫い針を踏み、足の裏から縫い針が入り足の上に針が移動していたのです。今思い出しても恐い事故でした。学級でピクニックに出かけ、芝生の上で転び、片方の骨を骨折したこともありました。この発見も次の日になりました。衣服の着脱時になんだか顔をしかめるということから辿り、肩の異常を発見したのです。その時「痛い」というサインを見つけられないばっかりに彼に何度もつらい思いをさせました。

3.宿泊訓練
 訪問学級に通う事に、子供たちも家族も慣れ、受け入れる教師も子供たち一人一人の個性が分かり始め、家族との信頼関係も築かれてきた2年目でしょうか。初めて学校で一泊の宿泊訓練を試みようということになりました。30年前のことです。ほとんどの子供たちが発作を持っているなかで、医療関係者はいず、教師だけでの24時間の生活は当時としては冒険でした。一回に6人。教師たちの緊張は大変でした。家族も初めて、他人の手にわが子を委ねるのです。後で聞くと夜、学校の周りを2度も車で何事もないか様子を確かめにきたという家族もありました。朝方大きな発作があるという人の枕元に教師が5、6人集まり、息をつめて今か今かと顔を覗き込んでいた(何事もありませんでした)光景も思い出します。家族にとっても教師たちにとっても長い長い24時間でした。全員無事、そして入浴や夜間の時間を共有して子供たちのたくましい力を知り、子供たちとの距離が縮まったという実感を得て宿泊体験は終わりました。今私の手元に迎えに来たお母さんたちがカーテンのしきりの向こうにいた子供たちとカーテンを開けて「ご対面!」をした瞬間の写真があります。母親達の視線は全てまっすぐわが子の顔に向けられています。ベッドに寝ているわが子の顔に母親も身体を斜めにして顔を横にし、しっかりわが子の視線をとらえている母親もいます。そしてこの時宇留野さんが言った「まあ、之義、大きくなって!」という言葉に全員で大笑いしたあの時間がよみがえってきますお舅さん、お姑さん、之義さんと幼子を抱え、嫁として一家の実権を渡されない中、さぞや苦労の多い毎日であったであろうお母さんですが、彼女の周りにはいつもこの場面のようなユーモアと笑いがありました。

4.作業所へ
 之義さんは訪問学級小学部、中等部を第一期卒業生として卒業。他の二人の卒業生と共に、母親たちが中心になって作った障害者地域作業所訪問の家の最初の利用者となりました。宇留野家が横浜市の西部地区の外れにあるため、明部地区にある作業所に通うにはやはり大変な道程になりました。当時、之義さんは病状も進行に伴い重積発作での入院も体験し、かっての高い所に上ったり、あちこち動き回るという行動は無くなり、歩くのも体を支えてという状態になっていました。相変わらず自宅からバス、私鉄電車、更に地下鉄という道程を自分より背の高くなった息子を支えながら、駅の階段の上り下りをして通う年月が始まりました。当時の記録映画があります。そのラストシーンは作業所に通じる急な坂道をお母さんがもたれかかってくる之義さんの身体を懸命に支えながら上ってくる場面でした。「ゆきちゃん、そら、しっかり歩いて。お母さんも頑張るからゆきちゃんも頑張ろうね。ほら、ほらしっかり、しっかり」と之義さんの足元を見ながらリズムをつけるように話しかけ、上ってくるお母さんの口調はまるで歌を歌っている用で、このお母さんの天性のおおらかさと広く深い母性を感じさせ、「母」のもつ愛と力が胸に迫ってきました。

5.朋での出会いへ
 7年間の作業所の通所の後、宇留野さん親子は皆の念願であった通所施設朋の設立と同時に朋へ通所することになりました。朋は横浜市の南部地区の外れにつくられました。西部地区の宇留野家からの通所は作業所から更に30分以上時間を要します。歩くのも母親に寄り掛かりながらという状態の之義さんには通常の交通機関を使っての通所は不可能です。朋から送迎車を出しても片道1時間以上かかります。 朋開所当時、通所手段は之義さんだけではなく何人かの人達の大きな課題でした。横浜市の全域に広がっている重症の人達の通所を朋の職員だけで担うのは無理です。ご家族の協力をお願いしましたが、宇留野さんのようにお母さんが車の免許を持っていない人も何人かいました。この時助けて下さったのが、朋建設時から協力をして下さったボランティアグループわかくさの会の皆さんでした。今から16年前、もしも事故が起こったらという心配より、「先ず重症の人達の活気ある毎日を作って上げよう、その為には朋に連れてこなくては始まらない」とそれぞれが自家用車を使って送迎をかってでてくださったわかくさの会の人達に、私たちはただ感謝の頭を下げるばかりでした。往復3時間近く掛かる宇留野さんの送迎は、誰でもと言うわけには行かず、大森さんという方を中心にチームを作っていただきました。現在大森さんは300人の会員をもつたんぽぽというボランティアの会を作り、そのリーダーを務めると同時に、区全体のボランティア連絡会の会長をしています。彼女が本格的なボランティア活動を始めたのは宇留野さんの送迎がきっかけだったといいます。宇留野さん親子の送り迎えの車中でのお母さんとの会話はとても楽しく長い道程も少しも苦にならなかったそうです。ある時は母親の気持ち、嫁としての気持ちを聞き、ある時は夕御飯の献立の情報交換をしたり、そしていつか障害のある息子と歩く母親と、自分も息子を育てる母親として、女性として共感し、人生の先輩としての敬意が生まれたといいます。今も二人の会話はとても遠慮のない仲のよい友達のようで、私の気持ちをほのぼのとさせてくれます。10年近く続いたボランティアさんによる送迎も、現在は6年前に郵便局を定年退職したお父さんが担当して下さっています。

6.二つの事件
 朋に通いだした宇留野さん親子に忘れられない大きな事故が二つありました。一つは弟の秀明さんが中学3年生の時に起こりました。秀明さんが教室で友達とふざけていて、相手の持つ箒の柄が彼の目をついたのです。失明するかもしれないという大きな事故でした。その知らせを聞いて驚く私に、お母さんは「怪我をした人より怪我をさせた人の方が何倍も苦しみは大きい。相手を責めてはいけないよ、と秀明に話した」と言われたのです。普通ならわが子の事で精一杯で相手の事など考えられないはずなのに、即座にそう息子に告げた母親に驚きました。幸い視力は落ちたものの完全な失明は免れほっと致しましたが、後に秀明さんに「凄い人生の先輩をあなたは母親に持っている、幸せだね。」と話すと「僕もそう思います」という答えが返ってきました。彼は5年前に結婚。二人の子供の父親になりました。宇留野家の近くに住み、時々可愛い奥さんとお子さんと朋に顔を見せてくれます。
 もう一つは之義さんのことです。8年前、夜中の12時近く我が家の電話が鳴りました。之義さんの顔色が悪い、汗をかいているというのです。それはきっと体のどこかに酷い痛みがあるからに違いない、すぐ救急車を呼んで近くの総合病院に行くようにと伝え、私もすぐその病院に向かいました。病院の玄関で救急隊の人と出会いました。いかがでしょうか、と問うと、血圧が60まで落ちてきているから、と心配そうな顔をされました。廊下に不安そうなご両親がいました。彼は処置室に入ったままです。重苦しい時間が流れていきます。空が少し明るくなってきた5時近くだったと思います。処置室から之義さんの聞き慣れた「ゴホン」という咳払いが聞こえたのです。「生きてる!」駆け付けてきていた職員4人、無言で目で安堵の気持ちを伝え合いました。それからしばらくして医師から説明がありました。之義さんの結節性硬化症という病気は顔に出てくるいぼ状のぼつぼつが脳の中にも出来、それが次第にその人の知的、身体的機能やその力を低下させていくものです。同じ病気で脳の手術を繰り返し亡くなった人も知っています。之義さんの場合、もう何年もの間、脳の中にいぼ状のものが増えていっていないということで安心していたのですが、実は腎臓に大きな血液の袋が出来ていたのです。この日の午後、彼は朋で転びました。室内であったことと彼に表情の変化がなく、様子もなんら変わりがない事から私たちはしばらく様子を見た後、いつもの時間を過ごしたのです。腎臓の横にできたその袋が破裂して出血したと聞いて、はっとしました。きっと転んだ時の衝撃が原因だったのです。しかも腎臓にそんな危険なものができているということは、誰一人知りませんでした。
 之義さんの全身状態から手術は難しいということで出血をとめるため血管から液を入れざるを得ず、結果として腎臓を一つ犠牲にしました。したがって、今、之義さんの腎臓の一つは全く機能していません。この時の入院は4ヶ月あまりになり、抵抗力の弱い彼ですので、途中MRSAに感染したり、原因不明の発熱があったり、一喜一憂の日々が続きました。やっと退院、朋復帰の日のご家族、そして私たちの喜びは一入でした。
 その後、家庭でつまずき、大たい骨骨折で3ヶ月入院というアクシデントもありましたが歩けなくなるのではという心配をよそに車椅子の心配はなく、今もゆっくりではありますが、職員に付き添われ朋の周りを散歩したり、外出プログラムにも参加しています。

7.お母さんの決断
 お母さんがやっとお姑さんから家計のお財布を委ねられたのは今から20年前でした。その頃からでしょうか。一年に一回、ご両親と之義さんとの2泊3日程度の旅行が恒例になりました。名古屋、四国、北海道と足を伸ばし、楽しそうです。これはきっとお父さんのお母さんへの労いの旅ではないかと、照れ症で、口では上手に言えないお父さんの気持ちを察しています。
 お舅さんは8年前に長く病む事なく天寿を全うされました。5年前、お宅に伺ったことがあります。お姑さんはとても元気で、ぽんぽんと歯切れのいい言葉でお母さんとやり取りする会話はお互い気性を飲み込んだ気持ちのよいものでした。その時お姑さんの口から、之義さんは我が家の宝であり、その之義さんを育ててきた「うちの嫁は、隣近所の嫁たちとはひと味違った大した嫁だよ」という言葉がでました。これまでの長い年月を知っている私はまるで私が褒められたようで涙がでました。ところが2年前、お姑さんに呆けの症状がでてきました。被害妄想の症状がでたのです。物がなくなる、嫁がとった、嫁が自分をいじめる等、お母さんが全く思い当たらないことを、お父さんの姉たちや近所で話し始めました。いつもおおらかなお母さんがどうしたらいいだろうと涙ぐんで話されることも度々でした。お姑さんが通所を拒否されるため、私たちの施設の診療所の先生に相談して知恵を借りながら、お母さんの苦しい日々が続きました。そのお母さんを支えたのは何もかも承知してくれていてお姉さんたちの間に入ってくれたお父さんの存在だったと思います。そんなお姑さんも93歳になり、体力が弱ってきました。次第に食欲もなくなり足にむくみが出て、入院を余儀なくされました。この7月の初めの事です。お母さんから相談がありました。病院ではもうとりたてて治療をようする病気はなく、ある程度体力が回復したらお家での介護がいいのではと告げられた。お父さんも家に連れて帰ってやりたいといっている。私には之義がいる。之義もだんだん体力が衰えてきていて日常的にも介護が大変になってきている。この上全て介助が必要なお姑さんの面倒を見るのは大変。この状態を知っていてお父さんはなんで連れて帰りたいというのだろう、ということでした。

8.人生のクライマックス
 確かに大変なことになりました。でも私は思ったのです。このお姑さんを自分の手で最後まで看取ってこの長い二人の関係は完結する。この最後のステージを他人に委ねたらきっと後悔する。それは長男であるお父さんも同じです。そこで「大変だけど、之義さんのことは朋が何とでも応援するから家で介護するほうがよいと私は思う」と私の考えを伝えました。お姑さんが帰ってきました。之義さんの送迎は時々朋が代わりました。お母さんと朋で会う機会がなくなりました。そして8月。夏祭りを手伝いにみえたお父さんからこんな話しを聞いたのです。3日前、おばあちゃんの部屋から突然お母さんのワーッという泣き声が聞こえた。母親が亡くなったのかと飛んでいったら、お母さんが「今おばあちゃんが私に両手を合わして拝むよう頭を下げた」と大声で泣いていたと言うのです。そう話すお父さんの目にも涙がありました。それからは何事も「おかあさん、おかあさん」とお母さんを呼び、息子のお父さんでは駄目なのだそうです。
 お家に帰ってきたのがよかったのか、お姑さんの食欲も進み、状態は落ち着いてきました。最近は、お母さんの気晴らしになるから朋へ行きなさいと週3回はお父さんが介護を代わってくれ、お母さんも他のお母さん方とのおしゃべりを楽しんでいます。
 先日久し振りに2階の保護者室から降りてくるお母さんに会いました。お父さんから聞いた話をしました。これからは彼女の話です。「家に連れて帰って本当によかった。今二階でお母さん方に話していた。障害のこどもと歩いた年月、これがあれば何も恐いものはないよ。これからお舅さん、お姑さんの面倒をみなくてはならない時がみんなにもくるかもわからないけど、恐がる事はない。ちゃんとできる大丈夫、私たちにはこどもたちがくれた強い力がついている」そしてこう付け加えました。「私は今人生のクライマックス。そのクライマックスを生きている、そう実感しています」
 人生のクライマックス、自信をもって誇らしげに語る之義さんのお母さんの30年を思いました。



製作:「朋の時間」製作委員会
配給:「朋の時間」上映委員会

(2003年度公開作品/ビデオ・長編ドキュメンタリー/カラー/123分)



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