重い障害のある人の「生涯学習」
通所施設で学ぶ ー重症身障障害者の通所施設ではー  日浦美智江

はじめに
 重症心身障害者の学びとは、一言で言えば、出会いと経験をいかに多くもち、心を揺るがす機会を持ち続けるかということにつきるように思う。重症のみんなの学校卒業後の活動の場、朋で15年共に過ごしながら、人は人の中で育ち人になっていくという思いを強くしている。重症の人は、一人では行動できない。誰かの介護を受けながら生きている。介護をする人が、その介護は、その人に必要では無いと感じたら、その介護は受けられない。例えば、重症者には入浴も、排泄時にも同性介護者は必要では無いと思う人は、入浴もおむつ交換も、何の疑いも無く異性が行うことになる。重症者に男性として、または女性としての意識があるのかと問われれば、ノーかもしれない。しかし、意識がないからと、なんの拘りもなく異性がおむつ交換をする無神経さは伝わるのではないだろうか。
 その人が、重症者をどうとらえるかで、重症者の券券の幅は大きく変わってしまう。司馬遼太郎の小説の中に「星の名を覚えるには学ばねばなりませんが、星を美しいと思う心は誰でももっています」という文章がある。どんなに障害が重くても、感じる心はもっている、その心があるからこそ人間なのだと、心を大切にみんなと多くの時間を共有し、多くの場面でそのことの真実を感じてきた。

1. ある出会い
 ひでこさんは、小頭症による四肢体幹機能障害である。歩けないし、言葉も話せない。目がよく見えないと調査票には記入されている。高校卒業後朋のメンバーになったひでこさんだが、よく嘔吐発作を起こしたり、イレウスで入院したりと健康が定まらない時期が2年続いた。薬の調節で発作が軽い状態で治まる様になり、朋への通所がコンスタントにもてるようになり、生活にリズムが出来てきたのは通所後3年目であった。肉体的なダメージから解放され、規則正しい生活が始まり、朋でのプログラムにも積極的に参加ができるようになり、笑顔も見られるようになった。そんなある日、あるボランティアさんが「おはよう」と彼女のグループに入ってくると、彼女がニコッと笑うことに職員が気づいた。「ひでこさん、ボランティアのIさんの声が好きなんじゃない?」と職員たちが観察を始めた。明らかに、彼女はIさんの「おはよう」の声で笑っていた。そこでIさんに「ひでこさん、おはよう」と彼女の名を呼んで、声をかけてもらうことにした。Iさんの声が気にいったのか、他の人ではなく、Iさんの呼び掛けに笑顔を見せるひでこさんにIさんはとても喜んでくれた。周りの人達もひでこさんは、Iさんが好き、とひでこさんの介助はIさんが専属で行うという場面が多くなった。笑顔が多くなると同時に、音楽がかかると楽しそうに車椅子に座ったまま、足をぴょんぴょん前に跳ねる様子が見えてきた。そんな様子をIさんが目を細め、にこにこと眺めている姿は私たちの気持ちまで幸せにしてくれた。二人は職員と一緒に街のスポーツセンターで行われているエアロビクスに参加したり(最初は驚いていたエアロビクスのメンバーの方たちも、音楽がかかると車椅子で足をぴょんぴょんと跳ね、にこにこ笑顔になるひでこさんに声をかけてくれるようなった)、音楽会に出かけたりと外出も増えていった。Iさんのご主人が、「ひでこさんを知らないと家内と話が合わない」と、朋に現れた。娘さん、息子さんも「ひでこさんってどんな人?」と現れた。そしてIさん一家はみんなでひでこさんのファンになった。今では、夏休みの数日を、ひでこさん一家とIさん一家は、Iさん一家の八ヶ岳の別荘で過ごす。ひでこさんが見せた特定の人への声への関心を一人の職員が見つけたことからひでこさんの世界は次々広がり、多くの人との出会いや経験から彼女が見せる笑顔の反応が早くなり、指を瞼に当て、物を見ようとするしぐさも多くなった。

2. ひろみさん
 ひろみさんは今33歳。脳性まひによる四肢機能障害で、座ること、話すことは出来ない。チューブ栄養である。食堂に大きな潰瘍ができ、貧血で入院したのが19歳、ドクターから、もうそんなに長くは生きられないだろうといわれたのが嘘のように今は元気なひろみさんである。1年間訪問教育を受けた後、初めて通学してきた日、彼女は39度の熱を出し私たちを慌てさせた。やっぱり通級は無理かという私たちの心配をよそに、彼女は生活のリズムがついたのが幸いしたのか元気に通級を始めた。ただ、一人娘のうえにおとなしい両親に育てられたせいか、人が近付くと恐いのか体を緊張させ目をつぶってしまうという状態が1年間続いた。食事は母親からだと口を開けるが、他の人では絶対口を開けない。この状態は2年間続いた。ほとんど無表情で、小学校時代を通じて笑顔も少なく、声を出して笑うということもなかった。ただ人が目の前で大きな動きをすると目で追い、時に笑顔を見せる。その彼女の笑顔が見たくてよく教師が彼女の前で踊ったものだった。卒業後通った地域作業所での写真を見ると、その写真も首を前に落とし、下を向いたり、目をつぶったりという表情が多い。3年間の作業所時代を経て、開所した朋に通いだし、そんな彼女が変わった。作業所と違い、朋では車椅子を大きく動かすことができた。スタッフにも若者が多く、話しかけの声も大きく、賑やかになった。視聴覚資材も整えられ、視覚的にも、聴覚的にも刺激が大きくなった。体調が戻ってくるのと平行して、彼女の目の動きが右に左に活発になっていた。人が目の前を通ると必ず目で追いかけた。声を出して笑うようになった。首の座っていない彼女は、車椅子に座っていてもすぐ首がヘッドレストから落ちてしまう。その彼女の頭を度々持ち上げて。ヘッドレストに乗せたものだった。今彼女は自力で顔を持ち上げ、頭を持ち上げる。そして自力で自分の頭をヘッドレストにのせる。笑顔も泣き顔も表情が大きくなった。人を追いながら、早く私の所へきて、外に連れて行ってというように期待にみちた顔を向け、更に声を出す。なかなか自分の所にスタッフが近付かないと大きな「あー」という声を出す。その声も最初は穏やかに、次第に大きな不満そうな声になる。両親が出かける用意をしていると、ニコニコと笑いながら目で追っているが、自分を連れて行ってもらえないと分かると大声で抗議をしだす。「日曜日は必ずドライブに連れていってもらえるものだと、期待しているので、その期待を裏切ると大きな声を出したり、泣き出したりする、日曜日が休みにならない」と言葉では困ったように、でも顔は嬉しそうに両親から報告がある。誰にでも笑顔が出る、声が出る、そんな彼女は今や朋の外交官役となり、見学の人に笑顔を振りまいている。あの小さな無表情の女の子がこんな女性に成長するとは27年間は思っても見ないことであった。

3. 表現の壺
 人は誰でも表現の壺を持っていると思う。その人の壺が思いでいっぱいになると思いが言葉になったり、声になったり、手や足の動きになって他人に伝わる。生まれてすぐはお腹が空いたという体からの信号が泣き声になり母親に伝わりミルクが与えられるのだが、成長するにしたがって、様々な要求が泣き声で表現されてくる。抱っこをしてほしい、おむつが濡れた、他の人ではなくて母親に抱いて欲しいなど、泣き声の表現はミルクが欲しいだけではなくなる。言葉を覚えると次第に複雑な心を表現できる様になる。私たちの表現の壺はきっと小さくて、思いですぐに一杯になり、それが溢れ、表現が始まるのであろう。しかし、重症の人達の壺は大きくて、なかなか思いが一杯にならないため、表現に結びつくまでに長い時間がかかるのではないだろうか。その壺を思いでいっぱいにするためには、思いを生み出さなくてはならない。思いは身体的な快、不快(感覚)から始まって人間と人間の関係のなかから多く生まれてくる。他の人の存在を認知できると思いの壺は急速に一杯になっていく。表現がなかなか見えない人も壺は持っている。ただその壺がまだ思いでいっぱいになっていないだけなのだと思うのである。私たちの壺がデミタスコーヒーのカップ位だとすると重症の人は、大きなお鍋位なのかもしれない。しかし何時かは一杯になる。その壺がいっぱいになる様に感覚的な刺激、人間との関わりのチャンスを連続的に持ち続けることが表現へとつながると考えている。ひろみさんの壺がしっかり一杯になり溢れだしたのは中学校を卒業した後であった。生まれてから学校時代まで、いろいろな人達がひろみさんの壺の中に入れた刺激、声かけ、関わりが15年後笑顔や声になって私たちに働きかけてきた。思いが伝わると更に次の思いを生む。重症の人達と接しているとかぎりない人間の可能性を強く感じるのである。

4. 重症化していく人達
 たけしさんと私たちの出会いは彼が15歳、学校教育を終えた4月であった。ムコ多糖症ハンター症候群というのが彼の障害名であった。幼稚園は地域の幼稚園に通ったという彼はその後地域の小学校の特殊学級に通い、中学部から養護学校籍となり、訪問教育も平行して受けた。私たちが出会った時の彼はすでに座ることも話すこともできず、啖が喉にからみぜい鳴も聞こえた。通所が始まって間もなく、母親は、息子はもう余り長くは生きられないと思うと話し、他のメンバーの成人を祝う会では、たけしは無理だと悲しそうにつぶやいていた。母親はその当時のことを、次第に障害がすすみ様子がかわっていく息子にどう関わればよいのか、啖がからむと、呼吸が止まるのではないかと恐くなりただおろおろしていた。そんな時朋と出会い、朋の看護婦から啖は吸引器でとればいいと方法を教わり、励まされて初めてほっと気持ちが楽になった。誰も自分にそんなことを教えてくれなった、と話してくれた。20歳で気管切開をし、以後ストレッチャーでの生活になったものの、とても無理だと思っていた感動的な成人の祝いも朋で行い、彼は26歳まで様々な体験をし、多くの人との出会いの中で生涯を終えた。彼が朋に通いだして間もなく、みんなでいろいろな音楽を聞いていた折に、たまたま炭坑節が流れた。それまでただ無表情に音楽を聞いていたたけしさんの目が大きく見開かれた。どうしたの?スタッフが驚くほど大きな目だった。炭坑節が原因だろうかとスタッフはまた違う音楽の後、炭坑節を流した。やはり彼の目が大きくなった。母親にもこの話をしたところ「彼は元気な頃、夏祭りが大好きで櫓の上で太鼓をたたかせて貰ったこともあるのよ。覚えているのね」との言葉が返ってきた。そうだったんだ、もう何も分からなくなっているように見えた彼の中に炭坑節が残っていた、大きな感動だった。彼の壺に祭りが、炭坑節が、残っていて、突然聞こえてきた炭坑節に彼の思いが溢れ、目を大きく見開くという形で私たちに伝わったのだ。以後毎年地域の夏祭りには「祭り男のたけしさん」と言われながら参加した。気管切開をして、祭りの雑踏は無理だと祭りを諦めかけた時、スタッフの一人が地域の御輿のグループと交渉し、町内の御輿を朋の玄関前によび、たけしさんのために「ワッショイワッショイ」と掛け声をかけ賑やかに担いだ。はっぴ姿でストレッチャーに乗り、目を大きく開けている息子の姿とみんなの気持ちがよほど嬉しかったのであろう。母親も「ワッショイワッショイ」と息子の目の前で御輿をかついだ。かつては走り回り、おしゃべりをしていた息子が次第にその力を失っていく姿を見ていなくてはならないのがどれほどつらいことか、簡単には言葉にはできない。しかし炭坑節は例え表現がなくなっても、思いの壺のなかは空ではなく、かつての思いは残っていることを教えてくれた。彼がかつて好きだったカーレースを思い、外車を借りてきて彼を注意深くそっと車に乗せ朋の周りをゆっくり走らせたスタッフがいた。温泉が好きだったねと、群馬まで温泉のお湯を取りに行き、徹夜で運んできて朋の風呂に入れ、彼がお湯につかったとたん「ふー」と深い息をして表情が和んだ様子を見て、「よかったー」とこちらも深い息をしたスタッフもいた。次第に肺に水が溜まり、吸引が頻回になる彼の健康を一生懸命守ったドクターとナースたち。もう見えなくなった彼の思いの壺奥にまだまだ彼の思いは残っているねとその思いを見つめ続け、問いかけ続け、それに彼が精一杯応え続けた朋での10年間だった。

5. 出会いと経験 
 朋では、何よりも出会いと経験を大切にしている。その人が、その人らしさを生かし、人と人との関係の中で、社会の中で個人として、その存在が明確に成るように、プログラムは社会にアクセスするプログラムを意識的に、積極的に作っている。その個性をただ朋の中だけの人間関係に中に閉じ込めてたくはない。ボランティアさんに多く手伝ってもらうのは、勿論援助の手助けをお願いしたいという目的もあるが、それ以上に多くの出会いをつくりたいというねらいもある。朋では毎年、横浜市立大学の医学部の学生の実習を受け入れているが、ある学生が「ここで凄い人に出会った。これからも自由に訪ねてきてもよいか」といってきた。彼が凄い人と呼んだのは、当時28歳だった脳性まひの青年、たかのりさんのことだった。彼は、いつも寝た姿勢で、自分の意志では指を動かすこともできない状態で、ストレッチャーに乗りながら、表情で、声で、身体の緊張で、自分の思いを堂々と、自由に他の人に伝え、明るく陽気な雰囲気をもっていた。その学生Oさんと彼は大変仲良しになった。長髪の彼が髪を切ろうかと相談したところ、たかのりさんが「おー」と抗議するので切れないと嘆いていたこともある。なぜかたかのりさんの側にいると、小さなことにくよくよするなといわれているようで、元気が出るとOさんは話してくれたこともあった。若い感性と重症者との出会いを私たち周りのものも微笑ましく見守らせてもらった。たかのりさんが31歳で、重病になり、命が危ないと知らせると、Oさんは1日中、彼に付き添っていた。通夜にも告別式でも泣きながら列席している彼の姿があった。
 朋のみんなは外出が好きである。若いスタッフたちは、自分達が楽しいと感じるものは皆体験してほしいと願うのか、次々に外出企画をだしてくる。経管栄養の人もショッピング、音楽会、ネールアート、美容院、カラオケ、ライブハウスとおしゃれをして出かけて行く。食事も中華街、ホテルのレストランとミキサー持参で楽しんでくる。ボランティアで来た企業の青年とホテルのレストランでデート。付き添った看護婦を「私がまるで邪魔者みたいだった」と嘆かせたメンバーもいる。勿論下見はかかせない。重症の人は来年実行しようということは難しい。今できることを今実行に移すことが大切なのである。そのためには本人の個性を知り、その人が楽しむであろうプログラムをいつも考え、用意しておかなくてはいけない。スタッフは市や区の広報に目を通し、面白そうな市民参加プログラムを探し参加する。市民菜園に参加しているけんさくさんに、初めはスタッフと地面に座り込んで手添えで苗を植える光景に驚いた人達も、最近では待っていたよと声をかけて下さる。
 重症の人達は病気になりやすい人達ではあっても、決して病人ではない。ベッドの中だけの生活にしてはならないと考えている。それぞれがそれぞれの個性で多くの人の心の中に生きてほしいと願っている。そのための出会いをたくさん作りたいと思うのである。

おわりに
 学びは模倣から始まる。模倣するには相手が存在する。相手すなわち自分ではない人間の存在、それは五感や身体を通じ重症の人達も感じている。そのきっかけをどうつくるか。そしてそれが確かなものになる迄には大変な年月が必要だという覚悟と努力がいる。重症の人は何も感じていない、分かっていないという人もいる。そうではない、という実際を多くの場面で見てきた。私たちが言葉によるコミュニケーションに余りに頼り過ぎるために見えなくなった、その言葉を生み出す根っこにある心や思い。その心(情動)や思いを言葉というオブラートで包むことなく、素のままむき出しで、伝えようとする人達のかすかなサインを見つけたいと思う。ひでこさんの笑顔とIさんの声との関係に気付いたスタッフ、ひろみさんの心がどこで大きく動くかを探し続けたスタッフ、たけしさんの見せた大きな目、それを見つけたスタッフ。そこには重症の人になかに私たちと同じ心の動きがあるということになんの疑いも持たず関わった存在があった。理屈ではない、お互いにお互いの存在を確かめ合うなかでのつながり。そのつながりを自分たちだけのものにせず、より多くの人達と共有し、広げていくように私たちがパイプ役になる重要性もまた感じてきた。お互いの存在の確かめ合いを続けながら、心を互いに動かす喜びをつないでいくことが重症の人の学びであり、同時に私たちの学びなのだと思う。




製作:「朋の時間」製作委員会
配給:「朋の時間」上映委員会

(2003年度公開作品/ビデオ・長編ドキュメンタリー/カラー/123分)



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