聴覚障害者用
参考シナリオ
注意:以下の採録シナリオは、主に聴覚障害をお持ちの方に
ご鑑賞の参考にしていただきたくて作成したもので、映画の完全採録シナリオではありません。
なお、著作権は放棄しておりませんので、転載・複製使用される場合は必ず、ご連絡下さい。


「朋の時間〜母たちの季節〜」聴覚障害者用参考シナリオ   

<「朋」の朝>

(玄関先で交わされる挨拶)「おはよう」

ナレーション:社会福祉法人 訪問の家「朋」が開所してから17年が経ちます。
ここ「朋」には重い障害がある人たちが昼間の時間を仲間と過ごすために通ってきます。

女性職員:「くんちゃん、ちょっと失礼(着替えのため抱き上げる)」

ナレーション:「朋」のみんなから“くんちゃん”と呼ばれて親しまれている坂田国男さんは、今日30歳の誕生日を迎えます。
 母親の坂田佳子さんはこの日が来るのをどれだけ待ち望んでいたか知れません。

坂田佳子さん:「私の夢だったの、30歳にはバラの模様の入った白い洋服を着せるのが」

ナレーション:ここ3年国男さんは病院を入退院する日が続いていました。
 それだけにお母さんも「朋」の職員も喜びはひとしおなのです。

坂田佳子さん:「私の夢だったから、あつらえたわよ。ね、くに。今、ケーキとってくるね」
日浦理事長:「くんちゃん、すごい晴姿だわ、これは、ねぇ」
宍倉医師:「ねぇ、すごい似合ってるよ。(計器の数値を指差し)いい値……大丈夫」

<誕生会のシーン>

男性職員:「誕生を祝う会を始めたいと思いまーす。(拍手)

 せーの。(くす玉が割れないので、皆が楽しそうに大笑い、くす玉がやっと割れると大拍手)

 おめでとー! はい。くんちゃん。
 みんなからのメッセージ、メ誕生日おめでとう。男の花道、三十路から〜モ。(拍手)
 30歳お誕生日おめでとー!(拍手)くにさんだよね、もう、くにさん。
 (ケーキの場面)すごい、いまだかつてない大きさ、今日はおいしいねえ。
 (乾杯の場面)くんちゃん、30歳のお誕生日おめでとうございまーす!」
 (おめでとうございまーす!
 ばんざーい。わー(楽しそうな歓声))

(ピアノ曲が流れて)
<メインタイトル>

<全景>

ナレーション:社会福祉法人 訪問の家「朋」は神奈川県鎌倉市に隣接する、横浜市栄区の静かな住宅街の中にあります。1986年4月「朋」はここで、法人としての施設運営をスタートしました。

<「朋」の朝の会>

ナレーション:「朋」には重い障害のある、中には医療を必要とする人達が、横浜市の全域から通ってきます。どんなに重い障害があっても、家族と暮らし、ひとりの若者として楽しい青春時代を送らせたい。これが「朋」を設立した親たちの大きな願いでした。

ナレーション:「朋」の日中活動は午前10時から午後3時まで。一日の始まりは10時過ぎからホールで行う、この朝の会です。

<朋の部屋「なぎさ」での日中活動>

ナレーション:坂田国男さんは呼吸状態が悪くなる冬の寒さが苦手です。そのせいか、桜が咲き、風そよぐ若葉の季節がやってくると、元気を取り戻します。

女性職員の声:「(餃子に具を乗せながら)入ります。」
日浦理事長:「…あら、いいのがあるねぇ。あぁおいしそうだ、いいにおいがしているよ、くんちゃん。おいしそうなにおいだなぁ〜」
女性職員のかけ声:「くんちゃん、行けー!
くんちゃん、行けー!やっちゃえ、やっちゃえ」
日浦理事長:「…よっ、やったー!」
女性職員の声:「くんちゃん、はいどーも、ごくろうさん」
日浦理事長:「…やったじゃない、これ、くんちゃんつくったの、印つけとかんといかんよ」
女性職員の声:「(餃子メーカーを押しながら)ぎゅっ、ぎゅっ。はい、みなさんに食べていただきましょうね」
日浦理事長:「これ、坂田国男って貼っとこうね、ね、貼っとく?」
女性職員の声:「はい、OK!くんちゃん、ほらくんちゃん、ね、おいとくよ。

 くんちゃんはね、この機械がけっこうね(得意です)。
 くんちゃん、助かります、ひとりでやってくれて」

女性職員:「(お茶をいれながら)くんちゃんは、珈琲党だった? ハーブ党じゃない?」

<帰宅のための送迎シーン>

女性職員:「(くんちゃんと談笑)…三男も、って」

ナレーション:国男さんのお母さんは、数年前まで焼き鳥屋をしていました。仕事が終わるのはいつも夜中過ぎ、朝までかかることもたびたびでした。
 そんな事情をみかねて「朋」の職員が送迎を行うようになりました。
 今日は施設長(当時)の日浦美智江さんが送っていくことにしました。

坂田佳子さん:「今日は餃子をつくったんでしょ、お父さんにお酒のつまみ…。ね。がんばったよね」
日浦理事長:「そのニラは“だいち”(朋の部屋名)で育てたニラなんだよ」
坂田佳子さん:「あらぁ、“だいち”で育てたの? うまくがんばったんだね」
日浦理事長:「上手だったよ、手叩いちゃったよ、ほんとに、嬉しくて」
坂田佳子さん:「(くんちゃんが声を出して笑う)なぁに喜んでるのよ。いやんなっちゃうね。朝と全然違うんだから。なんかここ来るとほっとするのね。で、笑うの」
日浦理事長:「ひとつずつひとつずつだったね…。クリアしたね。ほんとに、5月の後半、6月になるとオッケーだって言ってて、もう5月半ばになるからね」
坂田佳子さん:「もう大丈夫だね。くにの季節だね」
日浦理事長:「そうだね。くにちゃんは、若葉の季節がいいんだね」

ナレーション:ここ数年、国男さんは健康状態が悪く、お母さんには、不安な日々が続いていました。

<坂田佳子さんインタビュー>

坂田佳子さん:「いつも土日は、もう不安で不安でしょうがない。どうしよう、大丈夫かなっていう感じでずうっと来てた。
 普段は「朋」があいてるっていう感じだから、電話すれば誰か居る、と気持ちが安心してられるが、日曜日は心配。今、看護婦 (師)さんが、日曜日に電話を持っているけど、やっぱり違う。「朋」があいている方がいい。具合悪くても、「朋」が開いていると思うと、安心感がある。「朋」があいていると、なんか薬みたい。閉まってるっていうと、薬が切れたみたい」

<芝桜の花園>

(芝桜を前にして、職員と坂田佳子さんの感嘆の声)
職員:「すごーい、くにちゃん」
坂田佳子さん:「あらぁきれい、ねぇ、いいねぇ、あぁ、きれいだ」

ナレーション:坂田佳子さんは国男さんの生活を全て優先させるため、焼き鳥屋の仕事をやめました。
「朋」の職員はそんな坂田さん親子の生活を全力で支えることにしました。
 国男さんはこの芝桜が大好きです。

(芝桜の前に)職員:「すごい、くにちゃん、」坂田佳子さん:「あらきれい、ねぇ、いいねぇ、あぁ、きれいだ」
職員:「あぁきれい、好きなんだぁ」
坂田佳子さん:「好きよー」
職員:「すごいねえ」
職員:「行っちゃえ、行っちゃえ」
坂田佳子さん:「すごい、花に囲まれて、いいや、くに。いいねぇ」
職員:「幸せそうだね」
坂田佳子さん:「幸せそうだね、いいじゃん、いいじゃん。ねぇ、みごと。」
職員:「いいなぁ、花に埋もれている男…幸せそう」(芝桜の中の国男さん、笑顔に笑い声も漏れている)
坂田佳子さん:「写真よりもいいでしょ。とにかく 花がすきだから…」
職員:「においもいい匂いだね」

<講演中の理事長>

日浦理事長:「…障害がある“本人”にスポット(視点)を当てること……私は、30年前に重い障害のある人たちと、横浜市の中村小学校・訪問学級というところで出会った。実はその訪問学級にまさに、すでにその視点があった。その中で自分がすごく感じたのは、家族。 分けても主たる養育者である母親の存在がものすごく大きいということだった」

<中村小学校時代の写真>

ナレーション:1972年、横浜市教育委員会は全国に先駆けて、どんな重い障害がある子どもでも通える訪問学級を開設しました。それまで、学校には縁がないとあきらめていた家族にとって、小学校の中に開設された訪問学級は大きな希望でした。 子ども達が安心して学校に通うために、養育者である母親の協力はかかせませんでした。 教育委員会は訪問学級の開設と同時に母親学級をつくり、週1回の勉強会を始めたのです。講師には教育委員会が採用したソーシャルワーカーがあたることになりました。その母親学級をソーシャルワーカーとして担当したのが、「朋」の前施設長で、現在は訪問の家理事長の日浦美智江さんでした。

<日浦理事長インタビュー>

日浦理事長:「本当に最初の1年間というのは、逃げ出したいとは思わなかったが、一回一回、みんなで話し合いが終ると、本当に汗をかいた。だが、そういう中で、お母さん達の言葉が「あ、こういうことが大事なんだ」こういうことをすごく悩んでらっしゃるんだ」というようなことがわかり始めた。
 電車で通学してきたお母さんが、学校へやってきて、もう腹が立った腹が立ったと話す。おんぶした娘が、電車の中で隣の人の髪の毛を引っ張ったという。すると相手に「痛いわー」と騒がれても子どもは髪の毛を離さない。その時の泣くに泣けない気持ちを教室に着いたら、お母さんは吐き出した。 それを聞いたお母さん達は、「 けとばしてやれー!」とか、「 なによー!」とか言う。この母親たちのつながりに感動した。とにかくすごいなあ、すごいなあと思いながら、お母さん達といろんな話しをすることに夢中になった。
 それで、2年、3年経つ中で、ここで話すだけで、ただ、世間を敵にしたようにみんなでなぐさめあってもそこからは何も生まれないと思い始めた。 今でもそれはテーマだが、障害のあるお子さんを持ったということで、「なんで私が」「どうして私がこういう目にあうの」という、お母さんは大変な孤立感をもっている。全ての人みんながお母さんから見たら敵というか対岸の人になっている。「どうしてこの子が」より「どうして私が」というところにいる。それを(私がではなく)こどもの方にシフトさせていかないといけない。
 それと、やはり世間を敵にするばかりではなく、ある意味で、信頼を回復してくことが大事で、一人ではないんだ、やっぱり一緒に考えてくれる人がいるんだ、そういう思いになっていく、そのプロセスに自分は関わるんだなという、そういう思いがだんだん自分で整理されてきた」

<子供たちの写真〜作業所開所>

ナレーション:小学校、中学校と、子ども達の学校生活はあっという間に過ぎていきました。学校を卒業すると家族には次の試練が待っていました。子ども達が、昼の間活動する場所を急いで作らなければならなかったからです。
 お母さん達は訪問学級の教師達の協力を得ながら、作業所を作るために奔走し始めました。
 1979年、地域作業所「訪問の家」がスタートしました。
 4年後の1983年には「朋」と名づけられた2番目の地域作業所がオープン。「朋」作業所には母親学級の講師だった日浦美智江さんが職員として働くことになったのです。

<根岸地域ケアプラザで>

ナレーション:訪問学級、母親学級の一期生代表として作業所の運営に携わり、社会福祉法人の初代事務長を長い間勤めた本間恵美さん。本間さんは今同じ法人が運営する高齢者の在宅生活を支援するスタッフとして働いています。 本間さんは筋ジストロフィーの子どもの親として、いつも母親達の先頭に立って活動してきました。

<本間恵美さんインタビュー>
本間さん:「この子のおかげで、友達100人できたし、仲間は増えたし、それなりに苦労はしたが、いろんな知識を深めたし、人にお話しできる体験も積んだ。それは、この子がいたために私の人生がただの人とは違う人生だなと、感謝している。この子は私の娘であり続けてほしいと何かの文章に書いたことがある。
 だから、「お母さん、よく頑張りました。もう子どもをすり替えてあげるよ」って言われても、「とんでもない、この子はわたしのこどもです」と言うだろう。
 一人一人ちゃんと役割もって生まれてきている。ただ、みんなの世話になるだけの人生でなく、神の啓示があって、人間の怠慢などに対して、いろんな警告を発している。神様のように何も言わないで、黙ってじっと見ながら、何も逆らわないけれども、きちんと下のほうから、職員の動きとか言動とか、いろんなことを見つめていることはすごく恐いと思う。それは、神様があなただからこそ、こんな重い子を頼むよと託してくれたんだとやるしかないね、と、ひとりよがりかも知れないけど、そう思うしか、開き直るしかなかった。
 最初は、若い頃はぼやいたものだ。何でこの子は学校に入れないの?、ランドセルを背負えないの?、成人式に出れないの?、振袖を着れないの?、恋ができないの?、赤ちゃんにおっぱいをあげられないの?、好きな人と結婚できないの?、それだけの思いだけを持っていたら、すごい残酷だなって思って。」

<子供たちの写真〜「朋」設立>

ナレーション:訪問学級から始まった母親達の挑戦は次のステージに入りました。子ども達がもう成人期を迎えていたからです。
 作業所を始めてから4年後、娘の裕子さんが19歳の若さで亡くなりました。
 母親学級以来同志的な信頼関係で結ばれていた本間さんと日浦さんは、社会福祉法人の設立に向けて二人三脚の活動を始めました。 本間さんにとって新しい施設作りは娘の遺言でもありました。
 1986年4月1日、親たちが夢に見た新しい施設が完成しました。 訪問の家「朋」の歴史がスタートしたのです。

<友情・「朋」の部屋“なぎさ”>

お母さん:「…おはようございます」
職員達:「おはようございます。(みんなの明るい笑い声、話し声)

ナレーション:“なぎさ”のメンバーの若林裕子さんは、年末から体調を崩して、しばらく入院生活が続いています。母親の禮子さんも病院に寝泊りしながら看病する毎日です。「朋」に来るのは久し振りのことです。

若林禮子さん:「…晋ちゃん、おはよう、元気そうだぁ…お久し振り。お母さんも元気かなぁ。山田君、おはよう。お久しぶり。元気だった? 」
職員:「ちょっと風邪ひいたけど、だいぶいい感じ……裕ちゃんどうかな?」
若林禮子さん:「早く来たいって言ってたよ。また、よろしく頼むね」職員:「…もう二ヶ月以上になるもんね…ほら千恵さん、裕ちゃんのお母さん来たよ」若林禮子さん:「カットしたの?さっぱりしてるね」
若林禮子さん:「カンちゃん、おはよう、つっぱらない、つっぱらない。おはよう、握手。あーみんな元気そうだ」
職員:「裕ちゃんは元気かしらね」
若林禮子さん:「裕子ね、だいぶ元気になったよ。ありがとね、皆様」
職員:「病院でわがまま言ってないか、聞いてみる? 心配だよね」
若林禮子さん:「言ってるよ、言い出したよ、お母さんを寝かせなくなったしね。だいぶよくなったから、また帰ってきたらよろしくお願いします(返事がない……)返事がないわ、どうしよう(笑)」
職員:「どうする? かえってきたら、また、仲良くできそう?(返事がない……カンちゃんが声をあげる。みんなの笑い声)」
若林禮子さん:「起きてー、裕子のお母さんきたよ。おはよー」

<若林裕子さんの病室>

ナレーション:重い障害がある人たちを受け入れる病院は、まだ多くはありません。入院が出来ても、親の付き添いが必要で、家族には大きな負担がかかります。「朋」はそんな家族を支えるため、病院に職員を派遣しています。

<「朋」の部屋“なぎさ”>

ナレーション:新しい年が明けて、“なぎさ”のメンバーは、入院生活が長引く若林裕子(ゆうこ)さんを励ますためビデオメッセージを送る事にしました。
 以前、ほかのメンバーが入院し、激励のメッセージを送ろうと思った時、若林裕子さんだけが反対した事がありました。 みんなの中には、少し、わだかまりがありました。

男性職員:「…まずは、新年あけましておめでとう。もう出てこい。病院なんか早く出て来い。早く「朋」にかえってこい!ふだんは小生意気な子娘だと思っていたけど、いないと寂しいよね!   わだかまりはないよね。 もうそのこと気にしてないから、早くよくなってくれよ。(福寿直樹さんのあくびに笑い)」
女性職員:「裕ちゃんへ、(ウーンという神戸千恵さんの返事)わたし、(ウーン)裕ちゃんが帰ってくるのを待っています。(ウーン) いっしょにクッキングしようね。(ウーン)このあいだはアップルパイ作ったんだよね。(ウーン)おいしかったよね(ウーン)。裕ちゃんが帰ってきたらもうクッキングやらないなんて言わないでね(ウーン)。いっしょにやろうね(ウーン)。 待ってるよ。おわりー(ウーン)。スマイル」
女性職員:「これでいく? 裕ちゃんにウケると思うんだよね。どうする?、やめとく?これでいい?(菅野晃太郎さんの返事)あ、今、返事が来たよ。やったー!いつでも準備OK」
男性職員:「(管谷 晋さんの枕元で)5秒前、はい、晋ちゃん、4、3、2、1、はい、スタート」女性職員の声:「裕ちゃん元気ですか? ぼくは、裕ちゃんがこないあいだにこんなに髪が伸びちゃいました」
男性職員:「あれ、ほんとに伸びたね。晋ちゃん笑ってるよ」
女性職員:「こんなんなっちゃったのは、裕ちゃんがいなくなっちゃったせいだと思うんだよね」
男性職員の声:「(若林さんの枕元の画面)カンちゃん、早く裕ちゃんに戻ってきてほしいかな?(画面の菅野さんから返事の声がある)お、カンちゃんのはっきりした声、聞こえましたか?今。(画面は渡辺知美さん)ほら、この手みて裕子さん、すごいよー。早く帰ってきてこの演奏を聴こう!」
職員:「知美ちゃん、OK?(渡辺さんキーボードを叩く)OK」
女性職員の声:「(山田竜也さん)若林さーん、本調子じゃない俺だけど、がんばってるよ。だから裕ちゃんも頑張って欲しいよね。わかる?裕ちゃん、山田君みて。さっきまで眠そうだったけど、カメラが向いたら力が入ったよ。早く帰ってこーい」

男性職員と若林禮子さん:「(若林裕子さんの枕元)よかったね。ありがとうございます。どうだった?、よかった?」
男性職員(撮影をしながら):「ええと、今日は1月の28日、月曜日。写っているのは、な、なんと、若林裕子さんでーす。
若林さん、今、グループからの応援メッセージを見ていただきましたが、いかがでしたか?
うれしかった?(裕子さんまばたきで応える)ほんと、ということは、みんなありがとう、ということですか?(まばたき)と言っております、皆さん。きもち悪いほど、すごく素直で〜す。
 なんか、みんなのメッセージ本人にひびいたみたいです。ね、若林さんそうですよね。ハイ、まばたきで返事をしています。で、後ろにいらっしゃるのが…」
若林禮子さん:「母でーす。今日はみなさん、ありがとうございます。母も一緒に見させてもらいました。とっても喜んでおりました」
男性職員:「なんか、“なぎさ”のみんなに一言ありますか?」
若林禮子さん:「早く「朋」にいきたいでーす、って?。(まばたき)」
男性職員:「きもち悪いくらい素直です。(笑い)早く早く「朋」に行きたくってしょうがないんだよね。(まばたき)
「朋」の話をするとこんな感じになってしまいます。行きたくて行きたくてしょうがないそうです。だからなおのこと、みんなからのメッセージが嬉しかったんではないでしょうか」
若林禮子さんの声:「皆が恋しくて恋しくてたまらないようです。はい。帰ったら意地悪はしないよねー。なんか、優しくなっちゃって、みんなから気味悪がられちゃうんじゃないかしら(笑い)」

<交流・朋の土曜プログラム>

職員の声:「では、本日の土曜のプログラムをはじめる前に、沖縄からお見えになった読谷村障害児を守る父母の会の方の演奏をお願いしたいと思います。よろしくお願いします(拍手)」

ナレーション:「朋」には、毎年、600人近い見学者が全国各地から訪ねてきます。
今日は、沖縄県読谷村の村議会議員知花昌一さんが障害児を守る父母の会の家族を連れてやってきました。

(知花昌一さん による
        沖縄民謡 安里屋ユンタ の歌

「♪さぁ〜沖縄よいとこ、いつでもおいで♪ あ〜ゆいゆい♪
 春 夏 秋 冬 緑の島よ〜♪
 また春のうらら かぬしゃまよ♪
 はっ、はっ、はっ ♪〜」)

<朋 職員室>

増渕施設長:「ひとりひとりとても障害が重い方で、今、お話しができる人はいないので、今どんな気分なのか、いい気持ちなのか…をつかまえるのが難しい。
 しかし、つきあいが長くなると、今、何をしたいのかとか、今、少し楽しそうだといったことが、少しずつ分かるようになってきて、そういうちょっとした表情や表現を一番大事にしたいと思っている。
 一応エプロンしている人が看護婦さんだがノ最近は医療的なケアが必要な方が多くなっている。
 はじめは鼻からチューブが入っている方が1名しかおらず、元気な人が多かったが、だんだん重度になり、今は15〜16名の方が鼻腔チューブか、胃ろうといって胃に穴を開けて直接栄養を注入している。あと、気管切開で呼吸を確保している方が、3名いる」

<「朋」2階保護者室>

飯田さん安達さん:「以前はここで食事を作ったり、一食いくらで材料費を集めてお金を貯めていくとか、けっこう楽しかった」

ナレーション:「朋」の2階には、保護者室と地域交流室があります。
 ここは、バザーの準備や地域の人達との交流でいつもにぎわっています。
 「朋」の出発は母親学級、今でもお母さんたちは、子供たちのため日常的な活動を続けています。

飯田江美子さん:「「朋」の子どもは重度で手がかかるから、見かねて、職員を一人増やしてもらおうということになると、親も法人をもり立てていかなければならなくなると思う……」
安達恵美子さん:「うん、これでいいってことはないと思う」
飯田さん安達さん:「やっぱりレスパイトケア……あ、知らない? レスパイトとは……」
安達さん(途中からグループホームの映像に変わり):「入所の施設に入れるまでではなくても、一泊どうしても預かって欲しいときなど、預かって対応してもらえる場所があったらいいね、と保護者会で場所(家)探しや指導員探しを始め、最初は、見つかるまでは親がやろうと、この地域の中で、普通の一軒家を借りて、お母さん同志で互いの子をみようとしたが、一人では絶対にみれないので、二家族が子どもを連れて、一人のお子さんを見る。つまり二人のお母さんが、自分の子どもと預かって欲しい子どもの3人の面倒をみながら、一日を過ごし、次の日に「朋」に連れて行った。それから、グループホームができた。
 今はレスパイトケアとして、先生たちが「朋」の中でみてくださっている」

日浦理事長(途中から沖縄読谷村の親の会との懇談会の映像に変わり):「医療的に厳しい朋の人たちのような重度の場合は、医療的なケアがじゅうぶんできないのでグループホームは無理だし、今は、医療と福祉がドッキングしている制度は重症心身障害児という入所施設しかないので、通所という形で、こういう生き方をしてきた人たちが欲しい形の終の棲家…ひとつは、ホスピス的な機能も持てるような…そして、今まで生きてきたことを大事に守ってくれるような……そういう施設ができないかなぁと思っている。
 同じところがずうっとその延長線上でそういった施設をやれば、その人の一生の流れを切らずに、また人間関係も途切れずに、それがずうっと続けられるような、そういう施設を作りたいなぁと思っている。」

(沖縄読谷村の親の会との懇談会)
日浦理事長:「佐々木さんは、娘の佑季さんを自宅で看取ることができた。良かったと思える一生だった。お母さんがこのまま病院ではいやだと自宅に連れて帰った。また、原さんも同じように自宅に連れて帰った」
沖縄のお客様:「格差がありすぎて、なにか夢見ているような錯覚を起こしてしまいそう……皆さん重度でも、これだけグループホームが出来ているってことは素晴らしい……いままで何をしてきたのかなぁと恥ずかしいくらいです……」
日浦理事長:「できるできる、皆さんにもできるよ。みんなの笑顔が見たくてね。笑ってほしくてね」
沖縄のお客様:「こちらの重度の子どもたちが生き生き生活してますよね。
 沖縄だったら重い障害の人は施設に入れて、親もはじめの2〜3年は面会に行くけど、だんだん行かなくなってしまう」
原  順子さん:「重たくなってきて、お医者さんも10才とか15才までしか生きられないと言われて、そうだと思ったら生きられないと思う。朋で、医療的ケアも含めて、皆でみてもらえて、目的があってここへきて畑を作ったりして、そういうのはがんばれるんじゃないかと思う。いくら障害が重くても、それをいっしょに喜んでくれて、やってくれたのが26才まで大変だったけれども生きられたんじゃないかなと思う」
日浦理事長:「生きるというのは、医療だけでなく、やっぱり楽しみがないとやっていかれない。明日はこれがある、明日は何がある、明日を楽しみにする心と医療が、命を引っ張るのだと思う。その、明日を楽しみに…というのが私たちの役割だと思う」
沖縄のお客様:「こういう子どもが居なかったら、みなさんと触れあうこともなかったと思います……」

<友情・陶芸倶楽部>

ナレーション:「朋」には趣味を生かしたお母さんたちのサークルがいくつかあります。陶芸クラブは週に2回行われます。

原順子さん:「ちょっとしぼめて…いいよ、いい。ずいぶん感じが変わるね……(笑い)」
原順子さん:「…これはもう高く売れるよ……(笑い)……いいじゃん。すごい。すばらしい陶工たちだ。助け合いながら、どうでしょうか、ここは、もっとさりげなく。バレバレになってる…(笑)」

ナレーション:原  順子(よりこ)さんは12年前、子どもを連れて「朋」に通うかたわら、陶芸をはじめました。今では「朋」の若いお母さんたちに陶芸を教える事もあります。

原  順子さん:「まだ下向けて、乾いたらきれいに塗れてるよ…すごい素敵になる」
佐々木理恵さん:「…これは私のだね…」
原 順子さん:「ドボンて入れていいよ…1、2、3、……ああ、早すぎた……乾いたら、キレイなのができる。家族のなの?」
佐々木理恵さん:「そ、四人分」

ナレーション:原さんと佐々木さんは、子供を亡くしてからも「朋」に来て仲間と陶芸を楽しんでいます。
 原さんは、1998年に進行性の難病で子供を亡くした後、これからは若いお母さんたちの相談相手になろうと決心しました。難病の子供を26年間見てきた医療的経験を生かしたいと考えたからです。

<「朋」の玄関前>

ナレーション:原さんは、これまで苦しいとき、朋の仲間にどれほど助けてもらったか分かりません。
 2年前、佐々木さんの子供が気管切開の手術を受けた時、相談相手になったのが原さんでした。

<佐々木さん宅>

ナレーション:原さんが、久しぶりに佐々木さんの自宅を訪ねました。
 佐々木さんは、娘の佑季さんを20歳の若さで亡くしました。それから1年が経ちます。

原  順子さん:「このあいだ買ったのは?」
佐々木理恵さん:「あれはむこうの部屋」
原  順子さん:「そうなんだ、あれ「佑季ちゃんに似てるね」って日浦先生が買ったんだよ」

ナレーション:佑季さんは、「ニーマンピック病」という進行性の難病でした。
 発症は、佑季さんが中学生の時。ちょっとしたことでつまずいたりすることが始まりでした。
 3人兄弟の末っ子で、いつもにぎやかだった佑季さんの病気に家族はあわてました。娘の病気を受け入れることができなかったからです。
 佑季さんの状態は悪くなるばかり。
 それまで通っていた地域の中学校にも行けなくなりました。
 養護学校に入ると、もう自力では歩けなくなりました。そして、卒業する頃には自分で食事をとることもできなくなったのです。母親の理恵さんは、あまりに早い佑季さんの変化についていくのがやっとだったといいます。

原  順子さん:「…佑季ちゃんが、病気と分からないで無理させちゃったことがあったって言ってたじゃない。あたしにもあるの。あとで、なんでその時、あんなに冷たく叱ったり、励ましちゃったりしちゃったのかって、それを思い出す時に、一番、胸が苦しくなるの」
佐々木理恵さん:「そうそう、朝になると戦いだった」
原  順子さん:「病気だと分からなかったから、なんで今までできてたことができないの?って。
 今まで歩けてたのに、転んだり、おしっこした時に、なんで前みたいにひとりでトイレ行って帰ってこれないの?、おもらししちゃうの?、なんでできないの?って叩いたことあったの」
佐々木理恵さん:「そう、それは、私も同じ。ほんと、それが毎日、学校に行くとき、朝の戦いがすごかったの。高校入るまでの状態が、一番、あの子との戦いだったかもわからない。
 神経症になったみたいに、トイレ行ったり、夜寝る時も5分おきにトイレ行って、それがあの子の気持ちの中で、おもらししたとか、一番トイレが気になっているようで、その時は病気よりも、親が、まわりのめんつばかり見てたからかもしれない。「ちゃんとしなさいよ!、みっともないだろ」とか、そうゆうことしか考えられない。なんで今までできたことができないのかよ?とひっぱたいてあげたり。
 そして、最後は自分でおもらししても、「私はもらししてない」って言うの。
 お父さんがみて「濡れてるだろ」って言っても、意地を張って「やってない!」って。
 でも、私も気が楽になったのが、高校1年の秋ごろ、完全にこの子はもう病気だから、私がいくら、何しても「これは治るものじゃないから、あとは、病気として見て、それをサポートしてあげるしかないなぁ」ということで、どこ行っても私も手も出さなくなったし。
 すると、徐々に徐々に、あの子の顔が明るくなってきて、気持ちを少し広げてはきてるんだけど。やっぱりトイレの問題が、一番、印象に残っているみたいで。それの戦いが一番大変だった、今になって思うと全家族がね。」

ナレーション:3人兄弟の末っ子として、いつも家族の中心にいた佑季さん。
「人生、楽ありゃ、苦もあるさ」と言っていつも家族を笑わせていたと言います。
 「朋」で行われた成人式。佑季さんの両親はこの日を迎えられる幸せに感謝していました。
 「朋」に通うようになってから、わずか1年9ヶ月。成人式から9日後に、佑季さんは亡くなりました。

佐々木理恵さん:「…二十歳の成人式を見せてくれて、一番の親孝行して逝っちゃったのかなぁって思ってる。私も、あの子がいて幸せだったし…」
原  順子さん:「一緒に生きてよかったと思うよね」
佐々木理恵さん:「思う思う。普通の子だと、大きくなったら出てっちゃうから。そんなに思わなかったかもわからない。でも、あういう病気になって具合悪くなると、他人から見ると「大変」としか見えないかも知れないが、あんなに可愛い子はない」
原  順子さん:「かわいいよね」
佐々木理恵さん:「生まれながらに障害をもっていて、それを乗り越えてきた「朋」のお母さんより、自分は苦労は半分もしてないと、私は思う。
 私は途中から、病気に付いていくのが精一杯だった。それをお母さんたちが見るとたいしたことなかったと思う。
原  順子さん:「「朋」のお母さんたちはすごいと思うよ。いっぱい乗り越えて、それでまだがんばっているんだから、すごいね」
佐々木理恵さん:「ねぇ」

<「朋」での佑季さん>
♪BGM ピアノ♪

<原さん宅>

ナレーション:佐々木さんは、佑季さんが亡くなった後、精神的に落ち込み、家に引きこもる生活が続いていました。原さんや「朋」のお母さんたちは、そんな佐々木さんのことを心配していました。そして、何度も声をかけ、陶芸クラブに来ることを勧めたのです。原さんも、かつて、同じ経験をしていたからです。

原  順子さん:「…これは亡くなった後の(写真)……これが可愛いでしょう……(笑)…前歯が抜けちゃって…この時の写真が何枚かあるの。
 このワーゲンが大好きで、岳史(たけし)が決めてワーゲン買ったの。やんちゃそうでしょ。大変だったよ、この頃はね」

ナレーション:原さんの長男の岳史(たけし)さんは、3歳の時に「ムコ多糖症」という進行性の病気であることが分かりました。
 難病の宣告に、原さんは健康に産んでやれなかった自分を責め続けたと言います。
 岳史さんの病気は、年を追うごとに進行していきました。
 小学校に入ってからは、一人で歩けなくなり、食事もできなくなりました。
 岳史さんが「朋」に通い始めたのは15歳の時からです。「朋」にはなんでも話せる仲間がいる。原さんは、岳史さんを連れて「朋」に行くことが生き甲斐になりました。

♪大勢の歌声に太鼓と鈴の音がまじって、元気なオソマツ音頭♪ が聞こえている。
「ノノオソマツ音頭で チョ  チョイ ノ  チョイ(ア  ソレ〜)、チョ  チョイ ノ  チョイ(ア  ソレ〜)」
(応援団風に)「(応援団長)フレェー、フレェー、た け しぃ! わー!」ドン♪
「(応援団員たちと太鼓の大合奏)フレェー、フレェー、た け しぃ!
フレェー、フレェー、た け しぃ!
わ〜!」ドン♪
「(応援団長)がんばれぇ〜、がんばれぇ〜、た け しぃぃ!」ドン♪
「(応援団員たちと太鼓の大合奏)がんばれ、がんばれ、た け しっ! それっ!
がんばれ、がんばれ、た け し!
わ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」ドン♪

佐々木理恵さん:「これ、お祭りとか、運動会の時?」
原  順子さん:「岳史ね、20歳の時に、気管切開の手術をしたの。危険な手術になるとわかっていてね。そのとき、医療センターにお見舞いに来てくれた日浦さんが、これって渡してくれたの。岳史の枕元のカセットデッキで聞かせたたらこれが流れてきて。
 次の日、手術室に向かう時に、看護婦が「たけちゃん、あのテープ聞いてから行こう!」って、病室で聞かせてくれて。だから私は、たぶん、岳史はとてもいい気持ちで手術室に向かったんじゃないかなと思って」
佐々木理恵さん:「そうなんだぁ“ちからのテープ”だ」
原  順子さん:「うれしいよね。「朋」の職員の人たちがこれ作ってくれて。手術室に向かう時に、これを聞いたら、私たちだってがんばれるよねぇ。
 それでそのリスクの高い手術だったけど、大事をとって手術室から出て来たとき集中治療室に行きますって言われて、出てきたときには、麻酔から醒めて目をぱっちり開けて、「痛いのかな?」と思ったんだけど、目をしっかり開いて「やった!」って顔だった。そんなこともあったんだけど」
佐々木理恵さん:「そう、昨日のことみたいだね」

ナレーション:手術は、家族にとって重い選択でした。
 しかし、いつまで続くかわからない武さんの人生を家で送らせたい。
 何より、楽しみにしている「朋」に1日でも多く通わせたい、家族の気持ちに迷いはありませんでした。

原  順子さん:「一度、岳史と同じ病気の「ムコ多糖症親の会」で、先輩として話しをしに来てと言われたときのこと。あるお母さんが、今まで出来ていたことができなくなった時に、叱ったんだって。うんちをしちゃった時に、うんちを鼻のそばに近づけて怒って蹴ったんだって。そのはずみで、どこか家具にぶつけて何針か縫うけがをさせてしまい、それを後悔して、精神的に不安定になってお母さんが入院することがあって、それを今思い出しても辛いと言う人がいたの。
 「それは私もあるよ」と言うと、「えぇっ?」って顔をして、みんなが、(子どもが)生まれつき(の病気)だったらそんなこと無いけど、小さい時は元気だった子のお母さんはみんな「私もあったよ」って言い出して、全員泣いてしまった。そのときに、お母さんたちが集まるところが必要なんだなぁって思った」

原  順子さん:「あーなんか、(今日は一日)岳史と会っちゃった」

<管谷さん宅>

ナレーション:「朋」のお母さんたちは、子どもと一緒に、家で暮らせることを幸せに思っています。
 しかし、「朋」に通う人たちは障害が重いため、家族の介護は、思った以上に大変です。

ナレーション:管谷さんは、最近、子どもの健康状態に悩んでいます。
 管谷さんの悩みを聞くために原さんが訪ねて来ました。

管谷春江さん:「なんか恐る恐るなのよ、頭さわるの」
原  順子さん:「…お母さんがそうなるのはわかるよ。私だってすぐにそう、結びつけてたから。
 本とか、新聞の記事とか読んでも同じだ思いだして、冷静になると違うのに、同じように思えちゃうのね。」

ナレーション:「朋」のお母さんたちは子どもの健康状態に敏感です。
 ちょっとした気候の変化や、季節の変わり目に体調を崩すことが多いからです。
 医療的なケアが必要な人たちの家族は、いつも不安を抱えています。
 原さんは、子どもの介護に疲れ、不安な気持ちでいる時、先輩の管谷さんによく相談したと言います。相談し合う仲間がいなければ、母親は精神的に孤立してしまいます。

原  順子さん:「この隣で寝るんでしょ?」
管谷春江さん:「そこで寝てる、それで」
原  順子さん:「え?! これで寝ているの?」
管谷春江さん:「そのまんま、おねしょパットとそれとって」
原  順子さん:「え? これがお母さん寝るところなの? えー?なんか、畳の上に、これ一枚敷いただけで寝てるの?」
管谷春江さん:「そうだよ。もう何年も続いてる…。最初は、これだけだったの、ホカホカカーペット。そしたら、山口さんが細い布団で寝てるって前から言ってて、考えてみたらこれかなぁと思って、これ二枚……一年中これ、このまま。それで、冬はホカホカつけるから温かいので薄い布団と毛布だけで、3月からはこのまんま」
原  順子さん:「で、晋ちゃんが何かあったらすぐに対応できるようになってるの? その格好で?」
管谷春江さん:「そう、このまんまで。柔らかいズボン履いて。ここに荷物あるから」
原  順子さん:「…それもう何十年じゃない? 管谷さんがパジャマ着ないって聞いて、岳史が調子悪くなってから、私も、入院したらすぐに病院行かれるからって、切り替えて、逆に私は、今も、寝たり起きたりしてるけど。そうなんだー。でも私は布団は敷いた」 
管谷春江さん:「それで、ちょっと調子が悪い時だと、Gパンもすぐ側に置いといて、入院の荷物も置いて。…
なまじっか旅行に行って、あったかい布団で寝るとね、腰が痛くなって、だめ」
原  順子さん:「朋のお母さんたちね、調子が悪くなると、晋ちゃんだけじゃなくて、みんな、子どもの側でこうして寝てるんだよね」

管谷春江さん:「あたし、エアー抜きってあんまり考えてなかったの。そうしたら、宍倉先生がなんかこう張ってるわよって、こうバンバンに張ることがあるのね。そしたら、これがエアー。だけど今、大丈夫」
原  順子さん:「注入する前に、こうやってエアーのチェックするんだ」
管谷春江さん:「そうそう、これ、やってからね、注入する前にエアーをチェックするの。そうそうそう」
原  順子さん:「なんか調子が悪くなって、痛い顔すると、あなたは、晋ちゃんが言えないから。どこだろう…っていうチェック項目が頭にあって、原因を絞っていくんでしょう」
管谷春江さん:「腸閉塞の目安は、くちゃくちゃ、うえーってやる、おしっこがでなくなる、胃出血はする…それが目安なの。そしたらもう、お腹張ってるから」

管谷春江さん:「これで、(注入が)一時間半で流れるの。だから、夜は100で大丈夫10時間。夏も24時間大丈夫なんだって」

管谷春江さん:「これも小学校の3年の時か、在宅だったんですよ。で、こんな顔…とぼけた顔もよくしてたの。こういう顔……昨日、まじまじと考えちゃった。ほんとに、こういう顔がなくなっちゃったの。
 < 笑いのしんちゃん >で通ってたくらいだから、これだって、そうでしょう。
 まだ成人式の時は生き生きした顔してたのよ。22歳〜23歳くらいの時から笑わなくなったのよ。なんか笑いがなくなっちゃったのね。あんまり考えるのやめよ、お母さん。
 原さんの、たけちゃんのおばさんが言ったから、ね。考えないね。考えないでいいことにするね」
原  順子さん:「普段はね、いいよ。心配するときだけ集中的に心配して、そうじゃないときはいいよ。
 お母さんが心配した顔でのぞくと、晋ちゃんも心配するよ」
管谷春江さん:「この子は、小さい時から、頭なでるのが好きで、なでるとニヤっとしたけど、それも笑わなくなって…」
原  順子さん:「そんなの、大人だもん。おふくろにそうされるの、いい加減にしてほしいって…(笑)」
管谷春江さん:「そこまでわかるかなぁって」
原  順子さん:「わかるさー…(笑)今度若い女の子連れてきてみようか?…(笑)そしたら顔が違うと思うよ…(笑)」

管谷春江さん:「でも、原さんはうちなんかより厳しい状態のたけちゃんを、何年?よーく頑張ったね。偉いと思うよ」
原  順子さん:「ほんとうにそう思うよ」
管谷春江さん:「そういうこと考えるとね、私もってね」
原  順子さん:「私も、やっぱり晋ちゃんと同じような状態で不安を抱きながら、日々夜なんかも、不安になっていたわけじゃない。でも、定期的に1ヶ月とか3ヶ月に1回くらい、子ども医療センターに相談に行った時に、ドクターが「いつでもいいよ」って。僕が必要な時には、電話してくれればって言ってくれて。
 それは、すっごい何よりも安心だった。ドクターの一言で、親が安心したり、うれしくなったり。
 いいよって言ってくれると、いつでも行けると思うと、そんなに心配しなくていいんだってね。
管谷春江さん:「だから、何回も言うようだけど、やっぱり病院だね」
原  順子さん:「そうだね。日浦先生も、そのこと、最終的には、一番考えてくれてると思うんだよね」

<朋 玄関へ>

宇留野勝子さん:「じゃ、帰ります。いきましょ」
職員:「お母さん、ここに行こうかなって宇留野さんと午前中に話していて、6月の中旬に、山下公園のすぐそばなんですけど、これ」
宇留野勝子さん:「これ? あらぁ、おいしそうじゃない。なんてとこ?」
職員:「カフェレストラン・プラネットっていうところ」
宇留野勝子さん:「いいじゃない、お母さんも今度連れてって…(笑)
そ、山下公園にね。でも6月暑いでしょ」
職員:「いや、ちょうどいいと……」

ナレーション:宇留野之義(うるのゆきよし)さんの家族と「朋」の付き合いは訪問学級、作業所時代を入れてもう30年になります。之義さんのは朋でもっとも古いメンバーの一人になりました。

宇留野勝子さん:「6月の中旬、わたしがちょうど出かけるんですよ。だから…」 

<老後・宇留野さん宅庭>

ナレーション:宇留野さんの自宅は「朋」から車で1時間半近くかかります。
 子どもの送り迎えをする夫の一義(かずよし)さんは今67歳。
 あまり無理のきかない歳になってきました。
 訪問学級以来、30年付き合ってきた理事長の日浦さんは、歳を重ねてきた夫妻のことを心配しています。

<宇留野さん宅>

宇留野一義さん:「この柱もね、もうね、今年、建てて40年だからねぇ」
日浦理事長:「私も23年前に来た時以来だもの」
宇留野一義さん:「やっぱり、年金生活になると、ある程度、自分でできることは自分でやらないとね。入る金が年金は決まっているでしょ」
日浦理事長:「そうそう、そうですね、その通り。うちもそうなりましたよ」

宇留野一義さん:「いや、わたしもね、考えなくはないですよね。母ちゃんがちょっと血圧高くなったとかね。ちょっとした家庭生活の中で異変みたいなものがあると、そうだなぁ之義は、将来私たちが歳取ったらね、うーんって、考えますけどね。
 今現在がほら、(元気に)やってますからね。目の前に迫った深刻じゃないからね。だから、なんとかなるんじゃないかなあとかね。結局は、甘えもあるんだよね。なんとかしてくれるんじゃないかという「朋」に対しての甘えもあるしね(笑)」

ナレーション:宇留野之義(うるのゆきよし)さんは、結節性硬化症による障害があります。
 訪問学級に通っていたころはよく動き回っていたといいます。
 しかし、作業所時代には人に支えてもらわなければ歩けなくなりました。
 結節性硬化症は鼻の上にできたぶつぶつが脳の中にもできて体の機能が少しずつ衰えていくという進行性の病気です。だからこそ、家族3人一日でも長くこの家で暮らしたいと思っているのです。

宇留野一義さん:「まだ自分がね、運転ぐらいなんて頭があるもんでね。で、わりと疲れないですよ。気が張ってるからかね。全然疲れなんですよ」
宇留野勝子さん:「その言葉を聞くたびに私はありがたいなぁって思うんですけどね」
宇留野一義さん:「おじいさんが80近くまで之義のお風呂に入れてたんですよ。だから、私はいま、67ですから、おじいさんの歳になるまで元気でいたならば、あと13年はお風呂に入れられるって、頭の片隅にあるんですね」
宇留野勝子さん:「もうね、何が滅んでもお父さんだけは生き延びるから…(笑)」
日浦理事長:「お母さんが、もし、ほんとに寝込んじゃっりしたら、お父さんどうするの?」
宇留野勝子さん:「(お父さんが)やっちゃいますよ、ひとりで」
宇留野一義さん:「自分でお米とぎから、お風呂入れから、お風呂湧かして、朝飯の支度して食べさして、おばあちゃんと之義とふたり面倒みますからね、私は」
宇留野勝子さん:「実はここに来る前、川崎にいて、おばあちゃんは針仕事をしてて、日本鋼管の近くだったから、下宿人が8〜9人いたんですよ」
宇留野一義さん:「朝晩ご飯を食べさせながら、おばあちゃんは縫い物やりながら、働いてたわけね。で、川崎の郵便局は近かったから、たまたまおばあちゃんが風邪なんかひくと、私が8〜9人分の食事ぜんぶやったの。お米とぎからおかず作りまで全部やったの。
 今でも、年に二回、お母ちゃんが二泊三日で居ないとき、私がおばあちゃんと之義をみて、お風呂いれて、ご飯食べさして、薬飲まして、ちゃんと掃除して私がやりますからね」
宇留野勝子さん:「こないだは、お洗濯までしてました」
日浦理事長:「お宅は両方でもらい得だったよねぇ…(笑)」
宇留野勝子さん:「私ももらい得でしょ?って言うんですけど…(笑)」
宇留野一義さん:「かあちゃんが自慢するというけど。事実を言うんですけどね。
 お勝手なんかは、早くて清潔で、綺麗にやるのは私のほう。うちの母ちゃんにやらしたら、食べた茶碗もいつまでも片づかない。それで例えば、水滴一滴もないからね。いやこれは、決して自慢じゃないですよ。(笑)事実だからね、私は綺麗にするの、それで、早いんですよ」
宇留野勝子さん:「神経質でね…(笑)」
日浦理事長:「すごいねえ」
宇留野勝子さん:「がむしゃらっていうんですかね」
宇留野一義さん:「だからひとつのことで集中をしちゃうんですね。自分の性格がね」
宇留野勝子さん:「お掃除なんか、今日は俺がやると言うと、一日かかってやっちゃいますからね。でも、後がきちっとしてないのね…(笑)」
宇留野一義さん:「朝起きるとね、わたしが起きると、布団を上げて、之義のヒゲを剃ってやって、顔も拭いて、ご飯食べさせて、薬飲ませて、全部やりますでしょ。で、夕方のご飯も昼間帰ってきて、之義とおばあちゃんが食べる夕方の分と二釜用意して、昼はおばあちゃんとご飯食べさせて、茶碗も綺麗に洗って、後かたづけ終えて朋に迎えに行くでしょ。だから夕方帰って来て母ちゃんはお米研ぐ必要ないんです。
日浦理事長:「ふーん」
宇留野勝子さん:「でも、朝、出かけるときにぐずぐずしていると「お前は朝からなにやってるんだ」って言われるるの、でそういうときは黙ってじーっとしてるの…(笑)」
宇留野一義さん:「だってね、朝、ユキにご飯食べさせて、お茶飲ませて、はちみつ飲ませて、豆乳飲ませて、薬飲ませて、学校行くときは、玄関まで連れてって、履き物履かせて車に乗っけるのはほとんど私ですからね。その間、かあちゃんは何やってんの?って言うんですよ。…(笑)洗濯機は自動でしょ?…(笑)皿洗いはないでしょ…(笑)何やるんだっていうんですよ。なのに朝、朋行くのに、うちの中をパタパタ走り回ってるんですよ…(笑)俺、不思議でしょうがないんですよ…(笑)」
日浦理事長:「どう?、先生、女の人って、出かけるって、そうでしょう?…(笑)」
宇留野一義さん:「考えられないね。私が朝起きて学校に行くまでにやってることと、うちの母ちゃんがやってることとね…(笑)」
宇留野勝子さん:「だって、ユキちゃんのトイレやったり、着替えせさせたり、行く支度はしてあげなくちゃなんないから、そしてお洗濯やって…」
宇留野一義さん:「洗濯は、洗濯機がやってくれるの…(笑)」
日浦理事長:「干さなきゃ」
宇留野一義さん:「だから干すのは俺がやってやるってよく言うんですよ」
宇留野勝子さん:「(いやなの)くしゃくしゃっとしちゃうから。きちっとこう(でないと)…(笑)」
日浦理事長:「お母さん寝付いちゃったなんていったら、お父さんやっちゃうね」
宇留野勝子さん:「やっちゃいますよ」
宇留野一義さん:「やっちゃいます、やっちゃいます…(笑)」
宇留野勝子さん:「だから、あたし先に死んだら、斎場でやらないでここで送ってねって言ってるの」
宇留野一義さん:「よく言うね、こんな体裁のいいこと言ってるから、もう、死ぬのは俺が先だって、決めちゃってるんだからね」 
宇留野勝子さん:「いや、私が先に死ぬって言ってるの」
宇留野一義さん:「だって、お前、いつもあんたが先に死ぬって言ってるじゃない」
宇留野勝子さん:「言わないって、あなたは生き延びるって言ってるじゃない、地球が滅びても生き延びるって…(笑)」
宇留野一義さん:「じゃ、俺、バイ菌じゃないか…(笑)」

<(チャイム)朋の玄関前 朝の送迎>

日浦理事長:「すいません昨日はおじゃまいたしました」
宇留野夫妻:「遠いところすいません、時間がたっぷりあればよかったんだけど」
日浦理事長:「帰りは土砂降りだったから、時間がかかって……」
宇留野夫妻:「そうですね」

<信頼・横浜市立港湾病院>

ナレーション:坂田国男さんが楽しみにしている芝桜の季節が、今年もめぐってきました。国男さんは、年が明けて30歳の誕生日を迎えたばかり。
 しかし今年は入院生活が続いています。
国男さんを担当している職員の川波さんが理事長の日浦さんと様子を見にきました。

坂田佳子さん:「芝桜のとき、川波さんを指名するんでしょ? 川波さん、お迎えお願いしまーすって……。笑われちゃったよ。頼むよって。」
日浦理事長:「こんどは大丈夫だよって、約束しておきなさい、指切りげんまんって、ね。今度こそ。
 じゃ私は芝桜に言っておいてあげるから、毎日ね。ね。まだ咲いちゃだめだよってね。国ちゃんが来るときに、ぱーって全部咲くんだよって、ね。ほんとにピンクピンクが見えた?ほんとにピンクピンクだもんね」
坂田佳子さん:「嬉しいね」

<芝桜の園〜診療所>

ナレーション:「朋」に通ってくる重い障害のある人たちの健康管理は、年々厳しくなっています。
 家族の生活と充実した人生を、医療と福祉がどうすれば支えていけるか、訪問の家「朋」は、この課題に取り組むため、1993年に診療所を開設し、他の病院との連携を図ってきました。

職員:「さっき電話があったときに、本人も眠れていなかったというので、お母さんも、疲れている感じがあって、おそらく夕べ眠れなかったんじゃないかなって、3時ぐらいに予約をとってみて それでちょっとこちらから顔を出してみて と…」
宍倉医師:「はい、わかりました」
職員:「なんかあったら電話すると…」
宍倉医師:「はい、はい、わかりました」

<朋の部屋〜診療所>

宍倉医師:「今日はすごく元気そう顔つきよね。ちょっとたんが…ちょっとお口を見せてください。多少赤いけど…」

宍倉医師(声):「ここ(診療所)は福祉施設の中にあることをプラスと思って、どういう福祉的なサービスがこの方には必要なのか、その場合にどういうところに行って、どういうことをやれば福祉の道が開けるのかというような、最初の福祉の門を、ここであれば日浦先生や増渕さんなどに直接依頼する。
 それをみなさんはほんとによく応えて、どんな方に対しても100%動いてくださるので、それを利用者に還元する。それがここの特徴」
西山監督(声):「それが医療と福祉の連携ですね。それをスムーズに行うためには何を一番大事にしなければいけないですか?」
宍倉医師:「チームワークですね。
 チームワークがあるということは、職員の間で信頼関係がある。だから例えばそういう風にこの方に言ってあげることがどういう意味があるのだろうか、ここで診察をしながら、即、福祉の方に手をまわしますから。その場でそういうことをこちらで一呼吸おいて考えるということをされてしまうと 結局そこでもう相談にこられた方の気持ちを削ぐだろうと思う。ここから電話するとすぐ来てください、じゃあこの次、時間がないとしても、今は次のことを考えましょう、という形で次につながるため、マイナス要因がまったくでない。それは多分ここで必要だと思うことを100%そのまま丸ごと受け取ってもらえる、そこだと思う。
 だから逆に今度は、こういう人が他にもかかっているが、ちょっと医療的な相談にのってあげてほしいという場合は、必ず時間がかかるだろうと、こちらも思って、そのつもりで対応している。そこにはやっぱり、お互いの見る目を信頼し合うってことが、不可欠だと思います」

<横浜市立港湾病院>

坂田佳子さん:「若者はやっぱりユニクロよね。若者は………(笑)先生も若者だから…(笑)」

ナレーション:坂田佳子さんはこの病院のスタッフを心から信頼しています。
 春を待ちわびる母と子の気持ちをよく分かってくれているからです。
 国男さんが楽しみにしている芝桜はもうすぐです。

坂田佳子さん:「さ、帰ろうかな‥(みんなの笑い声‥国男さんも笑い声をあげている)
 いろいろありがとうございました。
 がんばるからね。今日は泣いちゃおうかな‥(笑)今度外来はいつだっけ。胸がいっぱいになっちゃって‥‥(笑)」
医師:「今度は火曜日に。なにかあったらいつでも来て。今度は救急車でね」
看護師:「お願いします。今度は救急車で来てください…(笑)」

坂田佳子さん:「よかったね。お家帰れるんだよ、よかったね」

坂田佳子さん:「がんばってね、…ありがとう。国の前で泣いちゃいけないんだよね。嬉しいんだからね」
看護師:「またね、国ちゃん、いっぱい笑っててね」
坂田佳子さん:「はい、いっぱい笑うよって。はい、がんばってね。がんばるからじゃあね」

坂田佳子さん:「よかったね」
西山監督:「国ちゃん、いい目してるわ」
坂田佳子さん:「そうでしょ」

坂田佳子さん:「ほら、気持ちいいねえ。…よいしゃ」

坂田佳子さん:「国の担当の人なんだ。看護婦さん、北海道へいっちゃうんだ」

くにちゃんとお母さんへ
 横浜に来て、くにちゃんとお母さんに出会えて本当によかったなあと思います。
 私はくにちゃんとおかあさんにいっぱい支えてもらいました。
 くにちゃんの笑顔とお母さんの明るさに励まされ、元気をいっぱいもらいました。
 いっぱいもらったのに、十分にお返しできず、離れることになりました。
 ごめんなさい だって。
 くにちゃんにできなかった分、札幌でがんばらなくっちゃと思います。
 一日も多く、くにちゃんの大好きな場所へ、大好きな人に囲まれ、過ごせることを願っています。 

坂田佳子さん:「よかったね。すごじゃない、94だって」

<ギター音楽〜退院の帰路〜朋>

日浦理事長:「(朋玄関で)寒い寒い、早く入ろ、早く入ろ」

坂田佳子さん:「ただいま〜」
職員やお母さんたち:「おかえりなさ〜い、くにちゃんおかえり〜、おかえり〜よかったね〜」
坂田佳子さん:「梶原先生が、いっぱい朋に行ってきなって、いろんな所に行ってきなって。この次から、お母さん、救急車で来るんだよって言われちゃった」

坂田佳子さん:「私は、周りの人に、大変ね、大変ね、って言われるけれど、私はこういう性格だからあっけらかんとして、なにが大変なのよ? 自分の子どもをみてなにが大変なの? って。
 だってうちの国は一番親孝行。他の子はみんな私から去っていくじゃない、嫁さんもらって。でも、国はいつまででも私と居られる、だから私は幸せよ、って言う。
 あぁ、そういう考えがあるんだねえ、だからあなた、いつも国ちゃんに関しては愚痴こぼしたことないもんねって。
 私、大変だって言ったことない。聞いたことないでしょ? ただ、胃出血するとか、んーって言うけど、疲れたって言葉は、私、出したことない」
日浦理事長:「口に出さないけど、お化粧してこないとしてこないと、しんどいんだなってわかる。で、お化粧してくると大丈夫だなってわかるの。あなたはそうだよね。でもここのお母さんたちはみんなそう、私、お化粧を見るわ」
坂田佳子さん:「みんなね、(朋のお母さんたちは)ファイトがある。で、みんな明るい」
日浦理事長:「そうだね、いい仲間だね」

<お花見>

ナレーション:今年の花見は、お父さんも一緒です。
 そして向こうでは、「朋」の仲間たちがみんなで待っています。

坂田さん夫妻:「汗かいちゃった。暑くなってきた。いい散歩コースなの。結構あるのよね」

朋の仲間・職員たち:「おーい、今来たよー、くんちゃーん」
坂田国男さんのお父さん:「どこだかわかった? わかるんだ」
朋の仲間・職員たちみんなの歓声:「くんちゃーん、みんな来たよー。おめでとう。良かった。良かったね。すごーい」
坂田国男さんのお父さん:「いや、綺麗だねぇ」

ナレーション:30年前、訪問学級、母親学級で出会ったお母さんたちはこの子がいたからこれだけの人生しか送れなかったのではなく、この子がいたからこれほど豊かな人生が送れたという人生をつくろうと堅く心に誓いあいました。
 時は過ぎ、お母さんたちは、愛するこの子のために作業所をつくり、社会福祉法人を設立して、訪問の家「朋」を開きました。
 それから17年、ふたたび季節はめぐり、訪問の家「朋」は地域の人たちに支えられて大きな家族になりました。

<ピアノ演奏>

朋の職員や仲間たち:「ありがとうございました(拍手)」
朋の職員:「なんか自慢げになってる…(笑)」
朋の職員や仲間たち:「国ちゃん堪能した?堪能できたかな?」

朋の職員や仲間たち:「くんちゃん、またね。またね〜」
朋の職員や仲間たち:「くんちゃんまたね〜バイバイ」
朋の職員や仲間たち:「気を付けてね〜 くんちゃんバイバイ〜」

坂田国男さんのお父さん:「どうも〜」 

(朋の職員たちの笑い声)
男性職員:「お似合いで〜す…(笑)」

<ピアノ演奏続いて〜♪  終 >



上映会の際に、聴覚障害者用の字幕を同時上映されることをお考えの方は、以下をご参照ください。

■字幕上映のご案内■

ご予定されている上映会の際に、聴覚障害者用字幕同時上映をご検討の方は、
以下のページ・字幕作成ソフトやファイルを参考になさってください。

朋の時間 上映委員会は、字幕上映のためのファイルが二種類あり、
このファイルを作成してくださった、
以下にご紹介する団体の皆様にお世話になりました。

横浜市社会福祉協議会

松山「朋の時間」を観る会
愛媛県視聴覚福祉センター

字幕ファイル
(ブラウザで表示するhtm文書となります)は、
上映事務局からもメールでお送りできますが、
上映方法などの詳細
(実際の上映方法)は、
以下にお問合せの上、
ご教示いただいてください。


横浜市社協 企画担当 西谷さん
Tel:045-201-2090
Fax:045-201-8385
kikaku@yokohamashakyo.jp

字幕ファイルは、
上映事務局からもメールでお送りできますが、
上映方法などの詳細(ファイルの利用方法)は、
以下サイトをご参考ください。


使用するアプリケーション(フリーソフトです)は、
字幕用テロップ表示ソフト YAT for Win32 です。

このアプリケーションの
ダウンロード先は、
こちら

http://www.vector.co.jp/soft/win95/art/se247273.html


使用・運用方法などは、

YAT の作成者:神野 健吾さんのホームページ
パソコンを利用した字幕上映 運用メモ
詳しく書かれておりますので勉強してください。




「朋の時間〜母たちの季節〜作品内容上映ビデオご購入 などについての お問合せ

(ビデオ販売代行
■マザーバード・ファクトリー■

貞末 ・ 梨木 ・ 洪




社会福祉法人 訪問の家 の公式ホームページは




このオフィシャルページは 朋の時間 上映委員会事務局 が公式サイトとして作成し、
2005年より、マザーバード・ファクトリーが管理しています。


■ (C)2005 朋の時間 製作上映委員会 All rights reserved ■
Any reproduction, duplication, or distribution in any form is expressly prohibited.


このウェブサイトの内容を許可なく複製して別のWEBやメディアに転載することはできません
またリンクを貼っていただける場合はご一報いただけますようお願いします
写真や音・文章・素材等を二次使用される場合は、
製作上映委員会に著作権のないものもたくさんありますので必ずご一報ください




オフィシャルホームページの HOME に戻る
.

.