映画「伝承-Transmission-」の音楽を担当しているアーティスト・山中 茂の活動
-Kodama- のプロフィール

[1997.9-2000.10]

-Kodama-Profile



 1960年1月17日東京生まれ。本名・山中 茂 -Shigeru Yamanaka-。
13歳の頃から音楽を志し、1984年から86年にかけて、女流作家で画家の味戸ケイコ氏の個展ための環境音楽を制作。
 それ以降も山中 茂 名で、作曲&Synthesizer奏者として、
映画「伝 承 -Transmission」、ビデオ作品「風流れるままに -アルツハイマー病の妻と生きる」をはじめ、数々の映像作品のテーマ音楽等を手がけてきた。
 1999年まで暮らした自宅は、千葉県の九十九里にほど近い築200年を経た旧農家で、敷地内に小さいが森を有し、氏神様の祠を奉り梟と住処を共にする環境であった。この森のなかにあって山中は、森や宇宙の精霊たちとの共鳴を得ながら自らの音楽性の基盤をつくった。
 1996年6月には、喜多郎や宗次郎といった日本でも有数のマインド系ミュージシャンを輩出したサウンド・デザインからプロジェクト名AIR ELEMEMTを名乗って、自身のデビューアルバム「Crystal Fantasy」(SDCH 1072 Stress Free) が発売され、ネーザン・イースト、カレン・ブリックスらをセッションミュージシャンに迎えたライブを青山スパイラルホールで行うなど、ニューエイジ界にも新風を巻き起こした。
 重ねて1996年からは、自らが音楽を担当した映画「伝 承 -Transmission」の長期ロングラン上映を支える三星村のスタッフの一員として、伝承のファンの熱望に応えると、1997年9月からは 3回にわたって、SHIGERU YAMANAKA 単独ライブ<
The Earth is Blue >を行い、そのセンシティヴなサウンドは絶大なる支持を得てきた。
 が、1998年4月、山中は大きな交通事故に遭遇し重傷を負った。
 楽曲を自ら演奏する山中にとって右手小指の複雑骨折は致命的とさえ思える大きな負傷であった。
 長期に渡った入院生活で、精神的にも肉体的にも生死の境をさまよった経験は、自身と音楽とのスタンスにも多大な影響を与え、1999年からは、木霊-Kodama- と改名すると新しいアルバム『木霊1』を三星村からリリース。もういちど独りで自身の音楽性の原点にたち戻るための新たな出発を謀ることを決意すると、新たに、木霊-Kodama- SOUNDの構築に精を出し、1999年10月には東京都下東青梅市・さらさやで激烈なファンの熱望に応えて奇跡の復活ライブを遂げた。
 そしてミレニアムを迎え、
 映画「伝 承 -Transmission」のロングロードショウの終焉と共に、4年に渡って上映を続けてきた古巣・ほびっと村でのライブ“訣別”by 木霊-Kodama- をきっかけに、2000年5月、東京都西多摩郡檜原村・フジの森で行った初めての野外ライブを皮切りに、7月には檜原村・やすらぎの里で、中学生のためのふるさとコンサートを精力的に行ったが、10月、長野県松本市の神宮寺(高橋卓志住職)にて、詩人・山尾三省氏とのジョイントライブを最後にライブ活動を休止した。
 木霊-Kodama- が最後に手がけたテーマは、
ALL IS FULL OF LOVE
 この年、初春から取り組んだ、海洋学者 レイチェル・カーソンが遺した数々の作品に共鳴して作った新作「
ALL IS FULL OF LOVE for Rachal」を完成させ、木霊としての全活動を封印した。
 2011年に完成したドキュメンタリー映画「普通に生きる」で、それまで木霊の活動を支援してきたプロデューサー貞末麻哉子によって、「木霊1」の楽曲の一部と、2000年7月に檜原村のために作った楽曲が、サウンドトラックに器用された。




< 木 -Kodama- 霊 in フジの森 2000.5.7 >


音を作っているとき、自分は霊媒師なんじゃないかと思うことがある。
特にピークになるのが満月の夜‥‥。オカルト的な話ではなくて、
死んだ後にとこかに行くのだとすればその辺にいるような‥自分自身の位置のようなものが、
人間でも、神でも悪魔でもなく、地球でもなく、そらのかなたのような場所から、
自分でも想像のつかないくらい大きな力に導かれて音を作り出しているような感じがする。

  (1997.9.20. ライブ直後談 SHIGERU YAMANAKA 当時) 


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