映画 伝 承 -Transmission - 作品紹介


 ■作品紹介■


 

 この映画「伝承-Transmission」は、チベット・インド・ネパール・タイなど、4カ国7カ所にわたるアジアの国々を巡って撮影された。
 
その大地に吹く風・時間の流れ・人々が継承して守る儀式や風景・光‥‥などを、若き青年が自らの精神と共振させて映像に刻印した作品である。

 その青年の名は渡辺祥充(わたなべよしみつ)
 この
映画「伝承-Transmission」の制作に、生命のすべてを賭けて他界した。

(詳しくは、誕生秘話を)



<スタッフ>

製作・編集・監督
 Yoshimitsu Watanabe

音 楽

 Shigeru Yamanaka

撮影スタッフ

鈴木正見

 Masami Suzuki

内田教彦

 Michihiko Uchida

中井伸樹

 Shinji Nakai

小泉雅彦

 Masahiko Koizumi

 PURNA Pd. KAMAL SHAHI

上映プロデューサー

 Mayako Sadasue

渡辺政充

 Masamitsu Watanabe


Special Thanks デラ・コーポレーション 江尻京子 / 配給協力 media EDIX





以下の文章は、1996年「伝承」の上映に際して、ショートレクチャにパネラーとしてお招きした皆さんによる、「伝承」の映画紹介文の一部です。

ほびっと村 発行の月刊「かわらばん」に掲載されました。     



伝承
「伝承-Transmission」という映画で私が出会ったのは静謐なアジアだった。
 それは個と往復運動の涯にあらわれてきたものではないだろうか。そしてそれは言葉ではなく映像でしか現出できない世界だ。言葉がないだけ映像は、ゆるぎなく、これしかないというところまで煮つめられているようだ。その1シーン1シーンに観客は瞬間的な旅(トリップ)をしている。日常的な現実感とは別種なリアルさ。観客の意識の底に浮上してくる感触だろうか。地水火風空という普遍性とむきあい、それを映像化していった監督のまなざしは個的で妥協がない。そんなきびしさにも似た気配と同時に、死をつきぬけた向こうから、ながめているような安らぎと静けさ、豊かさも同時に感じる。バイクが好きだったという監督の残したメモの文字は風をはらんでいるように見えた。11年にもわたって撮影と編集をくり返して結晶化していったこの映画は、監督の突然の死によってはじめてそのプロセスを終了し、作品として生まれたという。
 これから、私は45分のこの作品に何度も出会って、一瞬の死と再生をくり返し体験してみたいと思っている。

気功インストラクター 鳥飼美和子  


伝承
彼方へ  -on the border-

 宗教を意味するreligionということばの語源を探ると、「再び結び合わせる」という意味に出会うだろう。存在そのものが二つに切断されているという意識を持つ人は、過去から現在に到るまで数多く存在してきたし、結び合おうとする動きが、個人の心の中や社会に絶えることもなかった。宗教とは、正反対のものを結び合わせる技術である。渡辺祥充監督は世界の始まりと終わりを結び合わそうとして、魂を砕き、一つのフィルムを産んだ。この「伝承」という映画の中には、世界の発端と終末が、描き出されている。わずか45分という彼岸の時間の内に。「目に見える世界と目に見えない世界の中間に聖域がある」と彼は書き残している。その聖域に人が住みつくことはできない。ただ、旅することだけが許されている。その聖域-彼岸と此岸の狭間-にいる時、眼差しは限界を越えて彼方を見つめることが出来るのである。

詩人 河村 悟   
<1996年2月、ギャルリ・ウィでの上映会での河村氏によるレクチャーの大要。文責・洪 福貴> 


伝承

 その映像と音の危ういバランスと不思議な速度感に、あっというまに引き込まれてしまった。ヒマラヤの麓の乾いた大地でふたりの少女が貝殻を耳にあてて何かを聞いていた。ひからびた老僧が生まれたばかりの赤子の瞳で千年前の僧坊から出て来た。背中に凧を背負った少年がすこし恥ずかしそうな表情で視線を巡らしていた。すごい速度をはらんだ映像のなかに繰り返しアジアの祈りのかたちが顕われる。----「伝承」は懐かしく瑞々しい才能をもった渡辺祥充監督が遺した奇蹟的な映画だと思います。

画家 南 椌椌  


伝承

 初めてこの映画を見た時、記録映画か前衛的思索映画を予想していた私はびっくりし、圧倒されました。そうした分類を許さない、生きた映画だったのです。
 特に日常の現実を超え、次のリアリティーをもさらに超えて行こうとする果敢さと先鋭さ、そこに同時に見られる繊細さと、見えてくる世界の前世のようななつかしさに強い印象を受けました。それでもその印象はやがて薄らぎ、非常に高度なものながら、「いくつかある美しい突破口のひとつ」となってゆきました。 再び一輪の花のように「ただひとつしかない、かけがえのないもの」として私の中に浮かび上がって来たのは、胎児のように不思議なほほえみを持つものとしてでした。
 少しも感傷的ではありませんが、限りなく優しい映画なのです。高次元の優しい呼吸を持っています。それは、ミラレパの呼吸であり、スタッフと見る私たちの呼吸であり、「伝承」という名のターラの呼吸にしてほほえみなのです。

詩人・高校教師 細井秀郎 


伝承

 この作品には、世間の有為転変を超えて、受け継がれねばならないもの、近代人が、その薄っぺらな理性で、いかに無視しようとも、その奥に厳然とあるもの、「深みの次元」といわれ、「原型の世界」呼ばれるべきものが映されています。
 おそらく、宗教とは無縁に生きていたであろう渡辺監督が、こうした作品を撮り得た、というのは、彼の資質が優れていたというのは勿論としても、やはり、時代のなせる業なのかも知れません。

真言宗極楽寺・住職 伊東秀順 


 いつからかぼくは、この作品を密教思想をモチーフとした、一種の啓蒙映画と思うようになっていた。監督は導師、観客は弟子。映写機の始動にあわせて、巧妙に仕組まれた伝承のワークが開始される。密教の基本は、人間ひとりひとり(ミクロコスモス)がそのまま宇宙(マクロコスモス)であり、また宇宙は、そのままひとりひとりの人間でもあることを理解するところにある。ここでいう理解とは直感でなければならない。体験している瞬間にだけリアリティは存在するのであり、思考をくわえたとたん、それは本性ではなくなってしまうのだ。
 ワークがはじまる‥‥‥地、水、火、風、空、仏教が示す物質世界の元素構成にしたがって、映画は森羅万象の営みをサブリミナル広告のように写し始める。一枚一枚が示唆的な映像であるにもかかわらず、その速度ゆえに、意味を追おうとする欲求はだんだん消化不良になってくる。思考をやめ、ありのままに見。そして感じよ。もちろん誘導のためのストーリーやセリフはない。そうしたものを使えば映画は即座に相対化され、批評精神が目覚めてしまう。こうして操られるまま、観客はいつか自分が映像を体験している主体となって歓喜をおぼえながら直感認識にハマっていく。あたかも神秘体験のなかにでもいるかのようにだ。「伝承」には当初ストーリーがあったときく。それが撮影中にどんどん変更され、編集を終わった段階でまったく違う作品となっていたという。その理由は亡き監督本人だけが知っていつことだが、とりわけ密教的色彩の濃い土地で撮影を続けるうち、最初に描こうとしていたもの以上のなにかをみつけてしまったということはありうることだ。そして、そのなにかを伝えようとした監督が最良の方法として選んだものこそ、いまぼくたちが目にしているこの「伝承」だったのではないだろうか。

関口りょうたつ