【裏イントロダクション】
1999年、当時その発言が暴言としてひとり歩きし、相当な物議を醸したが、
府中にある障害者の医療施設を視察した際に、記者会見で某都知事がこう言った。
「ああいう人たちに人格はあるのかね・・・」
重い障害をもった人に初めて出会った時、
大きな驚きと戸惑いの中で、確かにこんなことを感じる人は多いのかもしれない。
そして、重症児の親になった誰もが最初は、
大きな悲しみと落胆と絶望と動揺の狭間で、わが子の「障がい」に長い時間を掛けて出会っていくのである。
知らなかったことは仕方がなかったとして、いつまでも知ろうとしないことは恥ずかしいことだ。
私たちの多くは、障害者個々の「障がい」をよく知らない。
ましてや「人柄」に触れることができる機会を持てることも少ない。
そして、それに向き合い、受け入れ、共に生きてきた親たちや支援者の心の歴史もよく知らない。
積極的に知ろうとしにくい。
知ろうとすることが失礼なことのように感じていたりもする。
知事をして知ろうとしなければ、その実際を視察できる機会すら極めて少ないのが現実。
だとして、健康な者だけの視点で、世の中を見つめていたのでは、
いつまで経っても、社会の本質を知ることはできまい。
社会の本質を知らずして、本当の社会の成熟を目指すことはできるのか。
もしかしたら明日、自分も障害者になるかもしれないし、
自分の子どもや家族が重い障害をもつかもしれない。 ふと気づくと、周囲には身体の弱ったお年寄りや、病気の人もいっぱいいる。
誰もが明日、そうなる可能性があることには目を伏せて、黙々と利益を追う。
そして突然そうなったとき、未成熟な社会を恨んでも嘆いても遅い。
実際には、
障害者にはそれぞれの症状や病状や能力に大きな個人差があって、誰ひとり同じ現実はない。
親たちや本人は、それを受け入れ、やがてそれぞれの方法で乗り越えてゆく。
乗り越えられずに苦悩を抱えている人たちだっていっぱいいるのも現実だが、
この映画の舞台となった社会福祉法人インクルふじを設立した親たちは、それを見事に乗り越えた人たちだ。
私たちの社会はどうあるべきなのか。 私たちの社会はどう成長すべきなのか。
重い障害をもった子どもたちは全身全霊で、精一杯の笑顔で、私たちにこの問題を突きつける。
わが子の「人格」の偉大さに心打たれ、背中を押され、支えられて、
その親たちは、親亡きあとの未来を作ろうと懸命に闘う。
自分だけのためにではなく、社会のためにだ。
カメラはその姿を追った。
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