静岡県富士市にある生活介護事業所「でら〜と」には毎朝重度の障害者が通ってくる。
ある人は親の車で送ってもらい、「でら〜と」のバスや車で送迎してもらう人もいる。
ここで、彼らは一人一人に合わせて練られたプログラムで一日を楽しく過ごす。
彼らはここではじけるような笑顔を見せてくれる。彼らの多くは言葉を話さないが、全身で様々なことを語ってくれる。ここで活き活きと自分自身を「生きて」いる。映画では彼らのきらきらと生きている様子を多くの人に伝えようと思った。
「でら〜と」が出来るまでは、富士市・富士宮市に住んでいる重度障害者も、養護学校(現・特別支援学校)を卒業した後は、自宅で親が24時間すべて面倒をみる「在宅」か、家庭の事情で在宅できなければ、家族と離れて施設に入って暮らす「入所」のどちらかを選択するのが「普通」であり「当然」だった。また「在宅」していても、いずれ親が年老いて面倒を見られなくなったり、あるいは親の身に何かあった場合は、障害者は入所施設にお世話になることが確実だったから、親たちはより細やかなケアを行ってくれる「良い入所施設」を探して、様々な施設を見学したり、勉強会などを活発に行っていた。そんな中で一人の親が気付いた。「どんなにいい施設だって山奥に建っていて、同じような人ばかり集まっていて、ノーマライゼイションっていうのにこれってアブノーマルなんじゃないか?」と。「当然」にとらわれていた心が疑問をもったのだった。これって「普通」なんだろうかと。それから親たちは自分たちが本当はどんな風に暮らしたいのかを考えた。
「地域にいてなんぼでしょ」、「どんなに重い障害を抱えていても、本人もその家族も地域で普通に生きたい!」。
障害を抱えた子がいると、その家族は「普通」ではいられなくなってしまう。介護を家族のみで「当然」すべきだという世間の常識のもと、親子共々追い詰められてしまう。障害の子供を抱えて、どこにも助けを求められず、社会からスポイルされてしまう。杓子定規で硬直した考え方で日常生活が様々に線引きされるため、家族が活き活きと生きられない。母親が髪の毛を切りに行くこと一つでも、家族で代わりに見てくれる人がいなければ実行できないというバカらしさ。また、親が障害を持つ子のケアに明け暮れることになるため、障害を持つ子の兄弟は様々な意味で親の手を煩わせないようにと自分の社会生活を犠牲にすることも多いと聞いた。色々あきらめて寂しい思いをした兄弟も実は多いということも知った。こんな状況が「普通」であることは「当然」なのだろうか。
地域で家族一人一人が「普通に生きる」ため、自分たちの必要としているサービスが無いと嘆いてばかりいないで、無ければ工夫して自分たちで作ればいい、自分たちの生き方をあきらめないで、親も子もその人らしく地域で活き活きと暮らしたい。
暮らし続けるためのニーズを一番よく知っているのは自分たち親だ、だから自分たち親が「福祉の受け手から担い手になればいい」。この、コペルニクス的な「発想の大転換」が、家族の未来を開いたのだった。
障害を持っている人は人間としての価値が健常者と呼ばれる人たちより低いと暗黙裏に思われているのではないだろうか。何も出来ないから価値がないとか、働けないから価値がないとか。だから、人間らしい生活ができなくても、隅に追いやられても仕方がないという納得のしかたで済ませていないだろうか。でも、そもそも人間の価値って人間が決められるのだろうか。構成を考えて行く中で、いつも自問していた。
私自身の中に知らずに「当然」としてもっていた価値観が揺さぶられ、せめぎあう時間でもあった。より多く、より早く、より正確にできるほうが優れていると無意識に思っているし、価値が高いと思っている。自立というのは誰かの世話にならず、自分で働いて稼ぎ、自分のことを自分で完結させるということ。働くというのはお金を稼ぐことで、たくさん稼いでたくさん税金を払った人の方が人間としての価値が多いと。そして、働けないものや介護の必要なものはお金を稼がない、金食い虫だという価値観。介護が施しのように感じている価値観。
だけど、人間という存在はそんなに狭いものだろうか。一人一人、誰にも支えられずに生きているものだろうか。
「こういう(障害をもった)子がいると、暗い顔して、下向いて生きてないと普通じゃないって言うか・・・・・”明るくてすごいね”とかよく言われるんですけどね、別に健常者のお宅と何も変わらないんですけどね」とある母親が話してくれた。
障害者がいる家族は不幸で暗くて、障害者の面倒は家族が見るべきなどという様々な「普通」が、ほんの少しの社会が変われば、別の「普通」に変わるだろう。
人間は人間の中で生きている。どんなに重い障害があっても地域で人々の中で人々と関わりながら生きていくということ、障害者の家族も自分自身の人生を生きられるということが当たり前の「普通」である社会が当たり前の社会になればいいと、心から思う。
そして、健常者も障害者とふれあうことで、たくさんのものを得ることができる。お金では買えない何かだ。
大人がどんなに言葉で命が大切、命の価値に上下はないとと子供たちに伝えても、今、社会を動かしている価値観が違うのだから、伝わらないだろう。
だけど、彼らが毎日懸命に生きているその姿を見せただけで、子供は命を感じ取るんではないだろうか。
障害児のいる母が明るくしていても「すごいね」なんて言われない、明るいのが「普通」の社会になるために、この映画がささやかでもお手伝いできたらと思う。