映画 伝 承 -Transmission - ■渡辺祥充との旅 内田教彦


「伝承-Transmission の制作背景のPageその2 です! Top Page に戻る

  渡辺祥充 との旅

「伝承」第一次撮影隊 スタッフ・内田教彦       



 出会い

 1976年冬、僕が中学三年。不良仲間と毎日のようにたまり場にしていたサテン(喫茶店)が何ともいえない緊張感につつまれた。中等少年院に行っている 旧 [ BLACK 卍 EMPEROR ] 六本木支部長 渡辺祥充(本名・渡辺義充)氏が帰って来るという。
 まだ中三だった僕は凄く恐い不良先輩が戻ってくると感じた。そして翌日それは現実となって目の前に現れた。眉間にシワを寄せ周囲に眼(ガン)を飛ばしながら、回りの者を威嚇していた。僕たちは直立不動で頭を下げ、誰もが頭を上げれなかった。今まで感じたことがなかった威圧感だった。無論自己紹介しただけで一言も口をきけなかった。
 それから一年くらいは、暴走族の集会やミーティングでしか会う事が無かったが、WATA君(渡辺氏)はいつも輝いていて、彼のまわりでは毎回のように事件が起きていた。ある集会では、WATA君は、中央高速での警察検問を先頭きって警官を引きずりながら突破した。のち1978年に道路交通法が暴走族のために改正されたが、施行の5分後に、原宿で事件を起こした第一号がWATA君であった。


 自主製作映画

 1977年〜78年頃、マスコミに暴走族が取り上げられている時に取材を通してTBSラジオのディレクターと知り合い、WATA君はTBSでラジオの仕事をするようになった。
 その頃から僕とWATA君が急速に付き合い始めた。
 ある日、先輩とたまたまWATA君の家に行くことになり、それまでは本当に近づきがたい人だったので少し緊張したが、部屋に入ると、レコードが500枚以上あり、フェンダーのギター、JBLの大きなスピーカー、コーディネートされた部屋‥‥‥すべてがイメージしていた人と違っていた。暴走族のWATA君ではなかった。優しく迎え入れてくれた。その時にどんな話しをしたのかまったく忘れてしまったが、それ以来、集会やミーティング以外でもWATA君と遊ぶようになった。「クローズUPニッポン」(TBSラジオ)という社会問題を取り上げたドキュメント番組の取材や編集の手伝いをしたりしてWATA君の家に頻繁に出入りしていた。
 そんな時期に熱中していた遊びは、二人か四人で先に人形のついたスティックを操るサッカーゲームである。WATA君はオフェンスが得意だった。六本木のヒップスという外国人の溜まり場で、指を骨折しギブスをしながらもWATAくんは外人を相手にゲームをしていた。とことんやらないと、本当に気の済まない性格だった。
 サッカーゲームに熱中しながらもラジオの仕事をこなす一方で、不良少年時代の事を書いた「関東年少ブルース」を書き上げ出版するなど、多忙な日々を送っていた。またWATA君は車が好きで、ミニクーパーやトランザムに乗っていて、よく週末には鵠沼海岸に僕や昔の彼女を連れ日光浴にドライブしに行った。余談になるが、その当時の彼女は女優のたまごで今ではすっかり立派な女優さんになっている。気がつくと、暴走族時代のWATA君の恐い顔が優しくなっていた時代でもある。

 本の出版・道交法改正がきっかけになり、WATA君は、何故みんなが暴走族に入ったのか、何故不良になっていったのか、何故社会に反抗したのか、そして今をどう生きているかを暴走族の仲間同志で映画にしてしてみようと言いだした。
 無論みんな素人だ。カメラ・照明・録音機材・使い方もわからなければ技術もまったくない。WATA君が勉強したことを教えてもらい、フィルムは知り合いの人から、ニュースフィルムの残フィルムを貰ったりしながら始まった。
 そのスタートの時に、僕の家の一部で関係者30人位が集まり製作発表を行った。そしてその時のWATA君は泣いた。これが最初で最後にみたWATA君の涙である。どれ程真剣にこの映画製作に取り組んでいるかが仲間の心に感銘を与えた。誰もがひとつに集まりこの映画を完成させようと思ったに違いない。それからは色々な人間関係の協力を得て、プロの人や、カメラマンの鈴木正見君や音楽の山中茂君など、多くの仲間が集まってくれ、僕の家の屋上にプレハブ小屋を作り、事務所にして毎週ミーティングを行い、順調に撮影が進んだ。仲間がひとつの目標に向かって走り始めていた。
 WATA君もTBSラジオの仕事を続けながら給料をすべて映画につぎ込み、車も売った。残フィルムがあれば頭を下げ、良いレンタル機材があれば、西へ東へと族の頃のように先頭を突っ走っていた。
 そんなある日、朝日新聞に、僕達が「不良少年映画隊」と紹介される記事になった。それがきっかけで、記事を読んだデラ・コーポレーション(配給会社)の故・江尻京子さんと出会った。実は僕は、もし江尻さんとのこの出会いがなければ、映画「伝承」は生まれなかったのではないか?と思うのだ。
 何故なら、
 このあと暴走族ドキュメント「俺たちの生きた時間」は、多くの仲間の協力と江尻さんのバックアップがあってついに撮影が完了し、東映系で劇場公開も決まったのだが、編集の段階で、劇場一般公開という目的を果たすために参画した映画会社によって、当初WATA君が意図していた作品ではなくなってしまったのだ。
 作品もWATA君もボロボロになってしまった。


 表面上は全国に一般公開され、サウンドトラックLP・シングルレコードも一部WATA君の作詞で発表され成功したようにみえたが、自分の思うように作品を完成させることができなかったWATA君自身は、苦渋苦悩の日々を送った。
 それらが肥料となり、「伝承」を送り出す旅の出発点になっていたのだ。




 

 企業によって「俺たちの生きた時間」を破壊されてしまったWATA君は非常に落ち込み、僕から見てもいつものWATA君とは違っていた。それでもWATA君は苦渋の経験をバネにしてもう一度自分の映画を作る事を決意して言った。目標はベルリン映画祭に出品出来るような作品を制作したいと。そして、アジアの小国でヒンズゥー教とチベット教が交わるNEPAL王国を選んだ。
 1983年1月8日、WATA君の旅が始まった。
 22日間の旅の中で、渡辺祥充は生まれ変わったように僕は思う。何故なら、東京生まれ東京育ちの人間が初めて目にした本当の自然やカルチャーショック、それらによって、それまでの自分がいかに小さなものだったか?自分自身、気付いたのだと思う。それは僕自身がWATA君と旅をして感じ得た事だ。
 1983年3月12日、元TBSラジオの同僚でもあり元 [ BLACK 卍 EMPEROR ] 会長蛯沢君、後輩の八亀君と僕、まさしく不良少年映画隊となってビデオカメラ・録音機材・スチールカメラを装備してNEPALに再出発した。
 1月30日に帰国して以来、毎日のようにWATA君が熱く語ってくれた魅惑の王国、NEPALのカトマンズに到着してまもなく、とんでもないトラブルに見舞われた。税関当局にビデオ・録音機材が販売目的の疑惑をかけられ取り上げられてしまったのだ。武器を持たない映画隊の中に生まれた取材対象の意見の相違から蛯沢君が帰国。トラブルだらけの中、WATA君は孤軍奮闘で、毎日空港税関や政府、日本大使館に交渉に出掛け、約二週間後に地元コーディネーター・Mr. BALの協力を得て保証金を支払い、機材を返してもらった。
 僕と八亀は英語がまったく話せなかったのでその時は何も出来なかったが、以後、僕達二人は必死で英会話の勉強をした。
 そんな事があってから、いよいよMr. BALと共に、精力的にカトマンズ市内・パタン市内などを取材した。そして一つの目標を企てた。それがその頃外国人が入れるかどうか解らなかったNEPAL西部のムスタン王国への潜入撮影だった。NEPALからTIBETにつながる西側ルート(アンナプル・トレッキングコース)を歩いて行くものだった。僕達日本人3人はは何の登山装備も知識もなくただガイドブックの地図を頼りに歩いた。ウェスタンブーツを履いてビデオ機材を背負っての過酷なものだった。約二週間アンナプルナ山脈を歩いたが、結局トレッキングパーミットを取得していなかったために目的は断念した。
 僕達三人は、そこで貴重な体験をして勉強になった。体力の限界、水の大切さ、食べ物のありがたさ、NEPALやTIBET人の信仰の深さを知った。NEPALに滞在した約二ケ月間、多額な保証金を支払ったために活動資金も少なくなり、一度予定を早めて日本に帰国し、チーム体制の立て直しや活動の事前調査不足を補おうということになった。
 帰りの空港で、コーディネーターのMr.BALとの暫しの別れに、男三人涙が止まらなかった。それだけ短い間に、色々な苦労が男の友情となった証だと思う。


 1983年5月14日、帰国してから三人ともカルチャーショックに陥り、日本の豊かさに対して、冷たい視線になり、老人のお話しがよく理解できたような気がした。そんな日々の中、取材してきたビデオテープやスチール写真をまとめる作業をしながら、次回の旅の資金調達に歩き回った。次回の出発予定日が決まり、出発の準備をしていた頃に、赤坂 [ BLACK 卍 EMPEROR ]の後輩で、当時18歳だった小泉雅彦(MAKO)がWATA君の活動に同感しチームに参加してきたのだ。実はMAKOはその一か月前までは現役のヤクザだったが、MAKOが求めるもとの組の体質が違っていたのでMAKOは組織から足を洗い、もう一度自分が求めるものを探しにチームにやってきたのだった。MAKOは「俺たちの生きた時間」でも、現役暴走族で出演している。
 1983年7月13日、再びNEPALに向かい出発。MAKOは約一週間遅れで合流しそしてこの旅が「伝承」を造り出す原点になった。
 約一か月NEPALで取材をし、ムスタン王国への入国断念。WATA君はインドへの旅を選んだ。仏陀が悟りを開いた地・世界遺産タジマハールの地・ヒンズゥー教とイスラム教の交わりの地・チベット仏教のインドへの通過地点‥‥‥これらをWATA君は取材ポイントにした。そのルートはカトマンズからパトナ、ブッタガヤ、ガヤ、アグラ、ニューデリー、スリナガル、ラダックだった。
 カトマンズから飛行機でパトナに移動。パトナからバスでブッタガヤに入り、菩提樹や池に浮かぶ蓮の花や寺院などビデオ撮影して、ガヤから電車でアグラに移動することになったが、そこでまた大アクシデント。アグラに向かう途中の電車が脱線転覆事故を起こしたのだ。たまたまMAKOが入ったトイレの車輌から切り離されてしまっただが、幸いにもMAKOの後ろ車輌から転覆したので、MAKOにはケガがなかった。私達はビデオで現場の撮影を始めたが、インド人達がなにやらヒンズー語で激しくケンカ越しに罵声のような言葉をあびせるので、気づくと何十人も僕達を取り囲んでいたのだ。あとでコーディネーターのMr.MILMARに通訳してもらったら、この非常時に人命を救助せず人の不幸を撮影するとは、との事。この時、僕達はジャーナリズムとは何かを考えさせられた。結局撮影したビデオテープ・フィルムを警察官らしき者に取り上げられてしまった。何とか転覆しなかった車輌で次の駅まで移動したのだが、外気は40度以上で、5時間も車中に閉じこめられ飲み水もまったくなく、汗でシートはびしょびしょ、本当に辛かった。
 ようやく次の駅に到着し、早速駅長にビデオテープの返還を求めて抗議したが、結局預かり証のようなものを受け取るのが限界だった。しかし、その駅で夕闇の中、無数の蛍を目にしたことによって悪夢は消え、感動した。何とか電車はその夜出発し、次の目的地アグラに夜明け前に到着。そこで、朝靄にけむるタジマハールのシルエットを見たときはまたまた感動してしまった。
 さて次は良いアクシデント。タジマハールの撮影許可を取得したのだが、これが恐ろしく強力なもので、なんとあの英国BBC放送でさえ撮影出来なかったタジマハールの内側・地下室の柩まで撮影できたのだ。しかも満月の夜に!‥‥‥しかし、このビデオテープはまだ未公開のまま、WATAKんの家に眠っている、月夜の光の中のタジマハールは感涙するほど美しいものだ。 次の地、ニューデリーに行き、ビデオテープの返還の抗議に日本大使館の協力を求めたのだが、結局テープは今まだインド国内の誰かの手元にあることだろう。次の目的地、カシミールに飛行機で移動。機中でカラコルム山脈を撮影。カシミールの首都・イスラム教圏内のスリナガルに到着。そこで目にしたのは、森に囲まれた高原だった。この地では水上ボートハウスに宿泊していたので、主に水や鳥の撮影を行った。水と緑が調和し素晴らしい色彩だった。そしてラダックのレイシティーに飛行機で移動。ラダックは4月末から9月末まで空陸路でしか行かれない場所で、標高は約4000メートル。空路の場合は高度順応が出来ず、高山病になる。チーム全員飛行機のタラップを降りたとたん息苦しくなり、歩けなくなった。しかし全員20分くらいで空気の薄さにも慣れ、レイシティーの川のほとりの宿を基地にした。そしてラダックでの取材はある兄妹の生活を中心に撮影し、子供の遊びの凧揚げや寺院や、風邪のイメージの撮影を行った。これらは映画「伝承」の基本となるビデオ撮影ではなかったかと思う。
 約2週間だったが、この滞在期間の中で、チーム全員人生観が変わったと思う。
 こうして「伝承」の出発点である最初の旅は、1983年10月12日に帰国。
 この日から、「伝承」の映画制作が、歩み始めたのだ。

「伝承」第一次撮影隊 スタッフ・現 会社員 内田教彦