撮影日誌   - プロローグ -



 タイトルもなにも決まっていない。
 ただ予感に似た微妙な確信のようなものだけがそこにあって撮影は始まった。

 たいてい始まりはそんなものだったかも知れない。
 予算もない・・・完成する確かな見込みといったら気合くらいしかない・・・完成できたとしてどうしたものか・・・でも撮影を始めてみるしかないじゃないか・・・みたいな。
 どうなの?今回はいけそう?・・・
 しかしそこに「いけると思う」というあやふやでも前向きな感触さえあれば、たいていは、やがてお金のこともなんとかなって、完成する見込みも出たりして、なんとかやってこれた。
 参加を求められても「たぶん無理」という(根拠がなくても)イヤな感じがするものはたいてい、参加しなくてよかったとあとで思うような結末だったことが多い。劇にしてもドキュメンタリーにしても、時間の長さにかかわらず大きな制作費とスタッフが動いてしまう・・・いったん撮影を始めてしまったら引き返すことこそ容易ではない。最初の勘が大事・・・なんて、ある意味自分のこのいい加減な勘を信じて始めてしまってよいものかと毎回そんなことを思いつつ、ついついここまで20年以上が過ぎてきた。

 とりあえず、前作は現場が横浜だったこともあって、日帰りはもちろん撮影スタッフの同行が可能だったが、富士市となると日帰りはなんとかなっても、子どもがいるスタッフの同行がかなわない。
 当然ひとりで運転して行って、ひとりで撮影してひとりで帰ってこなければならないことになる。ヘビーだ。万が一、連日撮影になった場合、往復に約1万かかるので、日帰りしてまた出掛けるのは経済的にもキツい。となると富士市泊もやがて想定内の事態となろう。当然宿泊費用なんて捻出できないから車中泊になる。
 大昔の私の車はハイエースロングで、後部座席より後ろが「なんちゃってお座敷」になっていて何日でも寝泊まりできた。車の中にはしばらく生活するには困らないくらいいろいろな所帯道具も載せてあって、これに泊まりながらスタッフや相方や猫連れで全国上映の旅もした。それがいまや経費節減で愛車は可愛い軽ワゴンになった。
 まぁひとつの体力的な覚悟も必要なわけで、つくづくこれが体調を壊して引きこもっていた春だったら体力的理由でお断りしてたろう・・・などと思う。





 富士市宝伝にあるその施設「でら〜と」の保護者会の席に、ご挨拶に伺いますとお約束した最初の日が、2006年10月20日だった。
 実は私の祖母が17日に亡くなって、その日20日は葬儀の日だった。しかしわたしは葬儀に参列せずに富士市に行った。
 なにあろう祖母の出身が富士宮だったからだ。
 最期の時も見送れて、きっと祖母がこの仕事を背中から押してくれていると信じてみることにした。両親や親戚もそれを許してくれたのだった。

 きっかけは9月末に、拙作「晴れた日ばかりじゃないけれど 」の上映会をこちらの施設でしていただいたことだった。
 埼玉県立大学看護学科の善生先生が、ぜひこの作品をこの施設の関係者のみなさんにも観てもらいたいと企画してくださった上映会だ。
 この作品は、はじめからビデオで販売することだけを想定していたので、こういう一般公開の機会をもたずにきた私も、ひとことご挨拶をさせていただこうと東京から出かけた。
 上映後、参加者のみなさんが 感想を述べてくださった
 そこに、21歳の娘さんがその施設の利用者でもあり、富士市の市議会議員もつとめられている小澤映子さんがいらした。そして、富士市で、7年もひとり暮らしを続けられている脳性麻痺の渡邊雅嗣さん(46歳)も車椅子で参加して下さっていた。
 皆さんの熱意のこもった感想に、久しぶりに自作の上映会に参加してよかったと思った。
 やはり自分のつくったものをきちんと人に観てもらって感想をうかがうことは大事なことだ。自分の手を離れて作品がどう一人歩きをしているかを見届ける責任があることもしみじみ感じた。
 そして後日、小澤さんからメールをいただき、熱心なオファーと幾度かのやりとりを経て、富士市で撮影させていただく話が進んだ。

 保護者の熱意で社会福祉法人を立ち上げて、2004年春に重症心身障害児(者)の通所更生施設として開所した「 でらーと」。
 いままた富士宮市に二番目の施設立ち上げを計画されているこちらの活動を中心に、実際に自立生活をされている渡邊雅嗣さんの日常を撮影させていただきながら、富士市からメッセージできることを作品にしようということがトントン拍子に決まっていったのだった。



     

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