撮影日誌   - 5日目 -



■2006年12月13日

 そんなワケで二日目の朝が大あわてで始まった。食いそびれた朝飯への恋慕は私の場合あまりない。なぜかというとどのみちあんまり食べれないから。しかし、考えてみたら前の晩、ご飯らしいものを食べそびれたのでめちゃくちゃ腹が減ってたことを思い出す。思い出したが時すでに遅しw。


 渡邊雅嗣宅のヘルパーさんは8時前には入るということなので、7時半過ぎからまるで刑事さながら雅嗣宅前でカメラを構えて張り込んで、ヘルパーさんと一緒に部屋に潜入して寝込みを襲うことに成功。こうなってくると軽いストーカーの気分だ^^;。

 まだ寝足りなさそうな雅嗣さん。しかしカーテンは無常にも明け放たれる。
「起きろ起きなければ強制執行するぞ〜w」と情け容赦なく布団も剥いでしまう今朝のヘルパーさんは渡辺さん。
 ヘルパーさんは朝食の準備と洗濯にとりかかり、そして、雅嗣さんは、また夕べと同じように必死の回転寝返りで身をくねらせてふすまを開け、さらに回転寝返りで15分くらいかけていつもの定位置に。
 ここまで見てようやくふっと腑に落ちた。
 そうか、これが雅嗣さんの寝起きなんだ、と。
 私の勝手な貧しいイメージでは、ヘルパーさんに抱きかかえられて布団に寝かせられ、抱きかかえられて起床する・・・そんな、ややなま温かい就寝起床のイメージだったのだが、ふむ。うなるほどにこれはなかなかうなるほどに厳しい寝起きだ。人が起きて一日を始め、一日を終えて夜になれば休むというあたりまえの行為を、こうしてあらためて見せつけられて、軽くショックを受けている自分。
 こうして安易に人の手に頼らず、全身全霊の寝起きを重ねてこられた雅嗣さんの生活。そしてそれを普通のこととして支えてこられているヘルパーさんたち。知れば知るほど、雅嗣さんのひとり暮らしを伝えたい、と思えて来る。


 さてそしてなかなかバランスのとれた朝食を済ませ、身支度を調えていると教会の羽野牧師さんがみえて、羽野さんの車で教会へ。
 




 <信仰

 今日は羽野さんの奥様もご紹介いただく。素敵な方だ。
 今日は撮影はしない。
 とにかくは、教会の雅嗣さんと一緒に居させてもらいたかったからだ。

 私自身、教会に来るのは数十年ぶりのこと。信仰がまったくないワケではないのだが、自分の中で宗教観がややこしく絡んでしまって糸がほどけなくなったような状態で、もうずっとうまく祈ることができないでいる。
 撮影者としてではなくて、祈祷会に参加させてもらうこと。
 雅嗣さんはもちろんのこと、羽野牧師さんも奥様も、そこに参加された数名の信者さんも、そういうわがままな私の存在を受け入れてくださったことに感謝。
 聖書を読み、賛美歌を歌い、牧師さんのお話しを聞く。私にとってとても懐かしく心地よい時間の感覚がからだを流れた。誰からも排除されず、自分の360度がそこに居ることを許されている安堵感。
 今日のお祈りは雅嗣さんが指名される。
 一言づつ、私は目を閉じて彼の言葉を聞いた。普段、健康な人との会話では考えられないほどゆっくりと、雅嗣さんの祈りの声は発せられた。
 彼は、東京から車で往復している私がどうか無事に帰れるようにと神の加護を祈ってくれた。素直に嬉しくて胸が熱くなり涙が頬を伝った。長い、綺麗な祈りの時間が過ぎて、不思議だがあり得ないほど気持ちが洗われていた。
 祈祷会が終わるとちょうどお昼になって、奥様が作ってくださったチキンライスをみんなでいただく。参加されていた信者のひとりは精神障害に苦しむ女性Mさんだった。私はMさんとすぐに仲良くなることができた。なぜなら私も同じように電車に乗れないという精神障害者だからだ。精神障害者の就労の問題はまた、雅嗣さんら身体障害をもつ人たちの場合と異なって難しい。親との確執もひどく、激しく理解されない煩悶に苦しむ。もしも彼女がこの「教会」という場を知っていなかったら、彼女の支えはなんだったのだろう。そして雅嗣さんにとっても、もし教会との出会いがなかったら、彼を支えるものはあったのだろうか。教会を通して知り合った人との出会いなんだろうか、それとも本当に神なんだろうか。
 そんなことを思っていたら、食事が終わってから、雅嗣さんがとても饒舌に教会との出会いのことを話し始めた。そして、撮影をしなかったことを後悔したが、彼がいま一番したいことを話してくれた。
 それは、
 統合教育をめざすために、自分ができることをしたいということ。
 現在ある「いじめ」の問題は、分離教育をしてきたことが大きく影響しているのではないかと、雅嗣さんは考えている。
 ある小学校に呼ばれて講演に行ったとき、通訳もいらず、子どもたちは一生懸命自分を見てくれた。
 「おじさんとみんなとどこが違うと思いますか?」彼は子どもたちに聞いた。すると子供らはしばらく考えて、
 「耳が大きい〜!」(実際大きいw)
 「手が曲がってる〜!」
 と楽しそうに雅嗣さんの身体的特徴をつかんで叫んだ。
 「おじさんはみんなが普通にしていることを出来ないことが多いだけで、同じ人間なんだよ」と彼が言うと、
 子どもらは遠慮せずになんでも質問してきた。
 どうやって水を飲むのか?と問われたら水を飲んでみせた、と雅嗣さん。
 つまり、そうやって子どもの頃から、障害を持った人と接する機会を持つと、おのずと他人のことをもっと知ろうとしていいのだという心が生まれ、やがてそれが自分と違う部分をもつ他人を理解して思いやる優しい心に育って、助けてあげられる自分の役割にめざめるんだ、と雅嗣さんは力説した。
 分離教育で、身体が不自由で気の毒な人はじっと見ちゃいけないと親から教えられ、目を背けることを学び、さらに距離は遠くなる、だから自分は、この姿を出来る限り見てもらって、子どもたちに感じて欲しいんだと。
 カメラが回っていなかったのが本当に悔やまれるほど素晴らしい話だった。
 今日は教会ではそこまでで失礼して、午後からはでら〜とで小林施設長に取材。





 さりげなくラガーシャツを着こなす小林不二也施設長は自称体育会系福祉関係者。意外と体育会系の福祉関係者は多い。やはり体力が勝負なこともあるんだろう。
 小林施設長の手が空くのを待つあいだも、施設での利用者の皆さんの様子を撮影するのだが、ベッドからロビーへ、ロビーからお手洗いへと、利用者さんを抱きかかえて運ぶのも相当な腕っぷしというか、体力が必要だ。腰などを痛めることも多いだろうことが容易に想像できる。ここは職員にとってはたいへんハードな職場なのだ。
 にも増して、職員から出る不満の声は、労働条件やら過労についてではないらしい。もっとこうしたいのに、制度がじゃまをしてできないことに対する不満。これが昨日、善生先生を通して職員の不満というか本音として語られた内容だった。これに関しては施設内で解決するのが難しい。特にこうした重度の障害を持つ方の施設は、医療的な看護と医療機関との連携が重要課題となる。そこには難しい制度の問題が横たわる。


 <闘う男

 忙しい中、時間を作っていただいて小林不二也施設長にじっくりとインタビューすることができた。
 大学進学当時、憧れていた方が選んだ大学で福祉を学ぼうと思われたという、きっかけは斯様にロマンチックであった。しかし在学中に授業料値上げ反対闘争が起こって、小林さんはその反対運動に飛び込んでいく。すでに学生運動はすっかり下火になっていた時代だったが、それまで勉強を重ねていった中で、次に福祉を学び志そうとする学生の存在は貴重に思えたという。そうした後輩たちの為にこれ以上授業料があがってゆく状況があってはならないと思ったと言う。
 結果敗退に終わるのだが、その時、自らの卒業を危うくしてまで体制と闘った小林さんの経験は、後に職場で大いに活かされていくのである。
 卒業して就職したのは、富士市の国立富士病院。元の国立療養所で結核専門病院だったところ。現在は結核患者が少なくなったため、医療を必要とする障害者などの入所施設となっているところが多い。小林施設長はここに病棟指導員という福祉職を得て17年勤めることになる。医療の現場で、入所者の生活向上をめざす部署にあたる。こうした入所施設に入所した障害者には、どういう生き方をするかの選択肢はない。自己実現はどうしても二の次になってしまい、結果、日がな一日希望のない窓の中で、なんの楽しみも持てず、ただ生命を維持している状態に近くなっていくのが入所生活者の日常なのだ。
 <普通に生きれる社会にしたい>という小林さんの一念はつのっていく。しかし、制度の厳しい壁が立ちはだかって、なかなか理想どおりにはいかない。そして、岐阜の長良病院という筋ジス専門病棟に栄転した数年の間に、重度の筋ジスの患者さんの自立を支えて実現に導く。ここへ来て初めて、こうした障害者の自立が可能であることを実感したという。そして静岡に戻り、静岡神経医療センターというてんかん専門センターを経て、再度富士病院に戻り、いよいよ小澤映子さんらの熱烈なラブコールにこたえて、でらーとの施設長に就任するのである。
 すべてお膳立てが整ったもののところに乗っかるのはイヤだから、小澤さんたちの戦いの最初から一緒に参加してきた。
 土地があったわけでもない。資金があったわけでもない。はじめにあったのは、重い障害を抱えた子を持つ親の熱意と、この子たちに普通の生活を!という強い理想だけだった。養護学校を卒業したあと、子どもたちが進む道は限られていた。施設入所か自宅に軟禁状態のようになってしまうか(←表現は悪いが、家族にとっては大変な負担になることは否めない)。
 小澤さんたちは、20名ほどで設立準備会を立ち上げて協力者を仰ぎ、ひとつひとつ目の前にある問題に取り組んでいった。


左が小林施設長

 「制度が最初からあることはないんですよ。誰かがつくってきたんです
 と小林さんはさりげなく静かな口調で言った。
 その言葉の底に、闘ってきた人の強い意思の力を感じる。

 そのまま黙っていても相当の地位についていたであろう有能な小林さんが、敢えて安定の道を捨てて、この法人に飛び込むことを決意させたものはなんだったのか。
 「理念がしっかりしていたことです」と仰る。
 『重い障害を持ったひとたちでも普通の生活ができる社会を作りたい』という理念さえしっかりしていれば、利用者が振り回されることはない。理念のないところに新しいものは生まれないということを実感してきた小林さんは、収入やその他すべての面で、いままで築き上げてきたものを捨てて、でら〜と設立に飛び込んできたのだ。
 ここに、闘う男の真意を見た思いがした。
 どこの施設や自治体を見ても、がんばっているところには必ず、がんばっている人がいる。ダメなところにはどこを探しても闘っている人がいない。
 出る杭は打たれるこの社会にあって、新しい制度や組織を作っていくことは並大抵のことじゃない。それを支える原動力の根幹を、あらためて小林さんに見せてもらった気がした。

 ちょうどそこに小澤さんが合流してくださり、狭い施設長室は、施設設立準備当初の苦労話などにも発展して花が咲いたように盛り上がった。
 闘う男がいて、闘う女がいた。その信頼関係はひとつの理念に支えられて厚かった。
 これからさらにその話に、ちょうど障害者の自立支援という制度の大きな時代的変化を背負った改革の時期が重なる。支援費制度から障害者自立支援法へと、法制度の変化も勉強して裏付けていきながら、ここの経緯はじっくりと整理していくつもり。

 




 <闘う女

 5時近くなり、でら〜とから小澤映子さん宅に移動する。
 小澤さんは、乗降補助仕様になったワゴン車の後部座席の回転シートに長女・元美さん(21歳)を乗せ、15分ほどのところにある自宅に戻った。
 体重が30kgはあるかと思われる元美さんを軽々と(見える)抱きかかえ、自宅玄関の脇にある元美さんの部屋に寝かせる。その部屋を増築する前は二階にあった寝室まで元美さんを抱きかかえて運んでいたという。階段の途中で背中に肉離れを起こしたのをきっかけに、玄関横に元美さんの部屋を増築してラクになったそうだ。「だけど腕っぷしは誰にも負けない」と小澤さんは明るく笑う。
 その部屋は増築する際にしっかり床暖房にして元美さんが過ごしやすいように設計し、食事のときに車椅子で食堂に移動するほかは、トイレとお風呂場もすべてこの部屋に繋がっていて、夜11時頃、元美さんはその部屋でそのまま休む。
 元美さんの好きなビデオをかけておけば、小澤さんが家事などをしている間、元美さんはひとりで機嫌良くその部屋で過ごしてくれるので手がかからないと小澤さんは言う。
 ご家族はご主人と、元美さんの妹さんと弟さんの5人家族。
 その日は小澤さんが帰宅するとすぐに夕食の世話をした弟さん(高校生)を塾まで車で送ると、娘さんとご主人の帰りは元美さんの食事が終わってからになった。それぞれに食事時間の違うご家族のために食事の支度をし、元美さんの夕食介助が終わった頃には8時半を回る。この間、実にせわしなく動き回る小澤さんをじっくり撮影させていただく。

 出産事故。
 食事後、辛い思い出を語っていただくのは申し訳ないと思いつつ、元美さんの出産時の話を詳しくうかがった。
 まだ子宮口も開いていない状態で分娩室に連れてこられた小澤さんは、陣痛促進剤によって強引に分娩を促されることになった。入院患者の多い市民病院で、そのようなことが行われていたのは日常だったという。そして、数時間をかけて少量しか流してはいけない点滴が、一気に大量に体内に流れる事故が起こったのだという。異常を訴えたにもかかわらず、小澤さんはその後も数時間放置され、妻の身体の異常をご主人が医師に訴えてようやく処置をされたときには遅かったという。お産はとんでもない難産となり、上から助産婦さんがまたがって押し出すように産まれたが、元美さんは仮死状態であった。
 やがて脳に障害が残っていたことがはっきりしてくると、なぜ自分が・・・という思いと、この子だけは死なせない、という強い思いの狭間で小澤さんは苦しんだ。
 次女のお産は軽かったという。しかし、次女がひとりで重い障害を持った姉を持つ事実を背負うことになることを思うと切なくてもうひとり出産した。男の子だった。ところが、この子どもたち3人が小さかった頃は、毎日が地獄だったと小澤さんはしみじみ語る。元美さん自体も夜中は一時間おきに泣く。そして次女・長男共に小さい頃には夜泣きが激しく、朝になってまた朝がきてしまった(朝がこなければいいのに)と思ったことさえ毎日のようだったという。二時間も眠ると、あー二時間も寝ちゃったと思ってハッと飛び起きる。苦しい日々だった。やがて、アルツハイマー病で平成13年に亡くなったお舅さんの介護もこれに加わっていく。
 生活の中に、重い障害を持った子どもがひとり、他に二人の小さな子がいてさらに認知症の老人介護を乗り越えた現実。「コワいものはもう何もないです」と小澤さんは明るく語る。
 そして、元美さんの養護学校卒業後の生活を考えている平成6年ごろ、ある入所施設に2泊3日の体験入所をした。
 そのとき、そこで繰り広げられていた障害者の閉塞した入所生活の実態を見て小澤さんは思う。この人たちは全部わかってる!、こんな生活をさせていてはいけない!、わたしが助けるから待ってて!、と。
 ここから小澤さんの本当の闘いが始まる。
 何もないところから、設立準備委員会の20名を集め、さまざまな法制度の中で可能なことを模索した。地域づくりをめざそう・・・小規模の通所施設だったらいけるんじゃないか・・・。今思えばよくあんなもん書けたと思うとおっしゃる事業計画書を書き、勉強会を重ね、平成15年、模索はやがて実現につながり、市からの土地の貸与も得て施設建設が具現化していった。
 ぜったい自分たちにもできる!と、できることを疑わなかったという。そのポジティブシンキングが成功の要因だと小澤さんは淡々と語る。
 その途中で、3期務めて引退した女性議員の後継を担って無所属無党派の市議会議員となり、さらにそうした日常の中で感じたり考えたりした声を直接政治の現場につなげていく活動に入って今に至っている。
 議員としても忙しい毎日。議会があるときは、ヘルパーさんに来てもらって元美さんの食事介護などは助けてもらっているという。それにしてもこの不屈のバイタリティーはどこからくるのだろう。

 続いて元美さんの入浴。天井走行リフトが元美さんの部屋からトイレを経てお風呂場まで繋がっていて、脱衣後は専用ネットの中にすっぽりと元美さんを包み、リフトで平行移動し、湯船の中まで昇降できる。それでも大変な作業であることは言うまでもないのだが、小澤さんはさまざまな家族のエピソードを話してくださりながら、黙々と作業をこなしていった。すべてを撮影させてくださったので、編集で配慮が必要なことは言うまでもないのだが、健康な人間の生活だけを中心に考えた暮らしでは、到底想像のつかない日常が小澤さんのお宅に繰り広げられていた。
 帰宅した妹さんが、入浴後の元美さんの髪を乾かしたり薬を塗ったりと、いつも通りの協力を得て元美さんの就寝の用意が整っていった。


自宅で入浴中の元美さんと、小澤映子さん










 
 二日間で60分テープが10本回った。内容的にも一泊しただけの手応えと成果はあったように思う。
 すごいエネルギーを凝縮して使いきったような軽い脱力感があった。「あたしのジョー」に言わせると、-真っ白に燃え尽きるちょっと手前-くらい(おおげさw)
  帰りの足柄SAでまたしても爆睡しちゃいました^^;。




そして続く 予定

 2007年末時点で撮影日数は述べ25日以上に及び、
回ったテープは110本を超えています。

2007年夏には、渡邊雅嗣さんの半年に渡る日常生活を記録した短編
「ささやかな日常
〜ひとり暮らし、サイコーだぜ!〜が完成しています。


詳細は追ってお知らせします。

2008年は、1月16日「でら〜と」で開かれる成人式から撮影開始となります。
 

   

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