こどもの難病シンポジウム「地域が拓く難病の子ども達の可能性報告書」

日浦美智江 基調講演
   『 地域の中で“たけしさんの一生”

 2001年127日(土) 
 沖縄県名護市 万国津梁館  
 主催 : NPO 難病のこども支援全国ネットワーク:てぃんさぐの会(沖縄小児在宅医療基金)
 


座長 高良 :特別講演に移らせていただきます。
 最初に、特別講演 日浦美智江先生をご紹介いたします。お手元のパンフレットにございますが、日浦先生は、社会福祉法人「訪問の家」理事長でございます。広島県出身、広島女学院大学卒業で、日本社会福祉事業学校卒業後、1972年横浜市立中村養護学校指導講師、83年には養護障害者地域作業所「朋」指導員。その後1986 年社会福祉法人「訪問の家」を設立なさいまして、知的障害者通所更正施設「朋」の施設長、2000年社会福祉法人「訪問の家」専務理事、当年地域訪問活動「径」の所長をなさっております。2000年10月社会福祉法人訪問の家の理事長になっております。
 本日は特別講演として、今回のテーマである「地域が拓く難病のこども達の可能性」に、非常にマッチした、特に地域の果たす役割とか、あるいは地域という捉え方についても、分析してそういったお話をしていただけると思います。皆さん、宜しくご静聴くださいまして、また後程討論につなげていただきたいと思います。先生、宜しくお願いいたします。

日 浦 :こんにちは。ただ今、ご紹介いただきました日浦と申します。宜しくお願いいたします。
 私は、昨日、友人の知花さんの読谷村の家に泊まらせていただきまして、今朝、彼の案内でチビチリガマに案内していただき大変衝撃を受けました。本当に命の大切さ、平和の大切さを身体で感じながら、今日午後またここで命というものを考えるシンポジウムに参加させていただくということを、個人的にも心に残る体験を沖縄という地でさせていただくということに、本当に感謝したいと思っています。
 私が横浜というところで重症心身障害者と呼ばれる方たちと出会って、まだ29年でしょうか。私は養護学校にソーシャルワーカーとして11年勤務しました。それから、卒後の重症の方たちの場所を造りたいと作業所で3年やりまして、今の『朋』、これは正式には知的障害者通所更正施設ですが、そこの15年。去年の3月までそこの施設長をやりました。今は『朋』の隣地にできていますサポートセンター『径』というところにおります。ただただ一本道を歩いてきたという私ですけれども、その中でいろいろ感じながら今日まで参りました事を少しお話させていただきたいと思います。
 今日のタイトルは「地域を拓く難病の子ども達の可能性」と書いてあります。福祉の世界ではここ10年来、地域という言葉がキーワードです。地域で生きる、地域支援という、地域、地域、とでて参ります。私、日浦は地域で生きていますけど、私たちは日常生活で、「私は今、地域で生きています。」なんて言わないですよね。なぜ、障害のある方たちはあえて地域、地域生活というのだろうか。対極的に施設というものがあるのだと思います。地域という言葉が意味しているものは、地域という言葉を使わないで生活をしているほど「当たり前」ということなのですね。また当たり前の生活をする事だと思います。
 この“地域”と言う言葉が意味している、表していることを具体的に言うと、まず私たちは朝起きたら、鳥の声がしたり、それから周りからバイクの音が聞こえてきたり、自分の家の台所ではその家のお母さんになり、私だったら私という人間がコトコトまな板で野菜を刻んだり、、お鍋でお湯を沸かしたりという音が家の中に響いてくる。そうすると誰かが二階からトントンと降りてくる。そのうち家の中にいい匂い、コーヒーの匂いなり、おみそ汁の匂いがしてくる。私たちが本当に気がつかないで生きているこの普通の音や匂いが、それがおそらく施設という所にはきっとないんですね。そうではなくて、そういうものがいつもいつも身近にある、私たちが普通に肌で感じて匂いを嗅いで、それが周りにあるそんな生活、それが大事なんだよということです。もっと簡単に言うと「ノーマライゼーション」と言うのはそういうことですね。「それをつくって行きましょうよ。どんなに障害が重くても、障害があっても、私たちが自然に意識しないで生きているその状態をみんなが生活の中で感じて生きて行きましょうよ」ということだと思います。
 もう10年近く前になると思います。『朋』はとても見学の方が多い施設です。ある県の重症心身障害児の入所施設勤務している方が見学に見えて、お話していましたら、「実は昨日、7歳になる男の子が亡くなったんですよ。」という話になりました。その子は事情があって1歳未満で施設に入って7年間、彼は指定席というのがあってその部屋の同じベッドで、同じコーナーで、本当に彼の指定席と言う言葉を使われていたのですが、そこで7年過ごして亡くなったというんです。私が「外にでなかったの?」と聞いたら、「厳しい障害だから外にはでていない。」「じゃ春の風を感じなかったの?冬の冷たい風も感じてないの?夏の暑い太陽も、彼は肌で感じないでそして亡くなったの?」といったら「そうだ。」と言われました。この世の中に生まれて、四季折々の風も、いろいろな匂いも、いろいろな人の声もざわめきも知らないで7年、指定席で亡くなった。それは違うよと私はそのとき心の中で思いました。
 今、有名になっていますレオ・バスカーリア作の「葉っぱのフレディ」の中に、こんな言葉があります。葉っぱが散って行くのですけれど、葉っぱのフレディが、「ぼくもここからいなくなるの?」って。それを聞いた兄貴分のダニエルという葉っぱがこういうんです。

「僕たちは葉っぱに生まれて、葉っぱの仕事を全部やった。太陽や月から光をもらい、雨や風にも励まされて、木のためにも人のためにも立派に役割を果たしたんだ。だから引っ越すんだよ」・・・
・・・「僕らは春から冬までの間、本当によく働いたし、よく遊んだね。周りには月や太陽がいた。雨や風もいた。人間に木陰をつくったり、秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませたりしたよね。それはどんなに楽しかったことだろう。それはどんなに幸せだったことだろう」

 それを感じるチャンスを、生活の中でいっぱい作りたいと私は思います。それはやはり人と人との出会いの中で、いろいろな経験の中で、それは得られると思います。今日と昨日は違う、また違う、そんないろいろな出来事をいろいろな出会いの中で、そしてその瞬間瞬間の中で、楽しいね、幸せだねということがいっぱい作られるそういう生活を、それが私はこの地域という言葉の中にある、表現していると思います。それはすなわち、人としてということだと思います。人として生きるということ、それが誰にとっても大事だということを、地域という言葉が持っていると思っています。私も地域生活とか地域生活支援と言う言葉を使いますが、その意味としては、ただ物理的な意味だけではなく考えております。
 もう一つは、「はたらく」と「はたらき」があるなと思います。人はこの世に生まれて生を受けて、やはりその人がその人だけにしかできない、その人だからできる「はたらき」というのがあると私は思います。
先ほど紹介いただきました私が勤務していました『朋』というところに、今48人、実はB型通園事業を持っていますので48人通って来ております。そのうち16人は経管栄養でいらっしゃいます。1人亡くなられたので2人の方が気管切開なさっていたり、下咽頭チューブをつけないと呼吸がくるしかったりする方が6人から7人いらっしゃいます。もちろん胃ろうの方もいらっしゃいます。歩けるかたは5人か6人ですけど、その方たちもいつ発作がでるかわかりませんので、いつも横についてあげなくてはいけない方たちです。
 この『朋』が15年前に建つと決まった時に、賛否両論があって、いろいろな方にいろいろな言葉をいただきました。まず、お医者様方には大変無謀だということも言われました。重症心身障害児と呼ばれる人たちはそういう日常の活動が難しい人たちを呼ぶのではないか。そこに行かれない人をそう呼ぶと思っていた。それを、その人たちの通所なんてとんでもないと言われました。本当に大変感謝しておりますけど、横浜市がなんとか私たちの願いを聞いてくださいました。
 どんな人も、その生活ができるかできないかは本人が決めていくことであって、周りから「あなたは障害が重いからこういう生活をしなさい」「あなたはこういう力しかないからこういう生活をしなさい」と周りがその人の力を決めたり、生き方を決めるのはおかしい。誰にだって自分が生きたい生き方を選ぶ権利はあるのだし、そのチャンスを一つでも多く作って欲しいとお願いに上がって、重症の人のための制度がなかったので、全員知的障害をもっているからと、通所更正施設という制度を使ったのです。そして別途、横浜市が補助金をつけようと言うことで実現したのが『朋』なんです。いろいろな人にいろいろな思いを抱かせ、波紋を投げかけた施設でした。
 まず、一番びっくりなさったのは、まさに物理的な地域の方々だったと思います。今、住宅街のど真ん中にその施設が「建つよ」「予算が付いたよ」と新聞にでたのです。一ヶ月もたたないうちにその施設建設に反対するという申請書が市長宛に出ました。びっくりなさったんだと思います。本当に静かな静かな住宅街に、小学校、中学校にはさまれた空き地があったのですが、そこに重度障害者の施設の建設予算がついたということが出たのですから、「私たちの所じゃない?」という話になったのではないかと思います。
 私は横浜市に呼ばれて、「こういう申請書が出ているよ」ということで読ませて頂きました。その中に、こんな言葉がありました。「文化施設ならいざ知らず、障害者施設はこの地には似合わない」ここはいわゆる高級住宅街なんだという言葉がありました。文化施設ならいざ知らずという言葉、おそらく街の方達は、そこに図書館とか小さな文化ホールみたいな地区センターとかそんなことをお考えになっていたのかもしれませんが、それがいきなり障害者という言葉がついたものだから、文化施設ならいざ知らずという言葉になって自治会長名で申請書が出たのだと思います。
 文化ってなんだろう、と思いました。やはり文化の根元は命。そして生きるということにつながっていく。生きていく上での喜び、悲しみ、苦しさ、それが文章になったり、音楽になったり、絵画になったりして、それがみんなに伝わっていく。私は単純に文化というものをそういうものに思っていました。その文化の根元にある命を、そして生きるということを本当に一生懸命考えて大事にする、障害のある人たちの施設。それはまさに文化施設そのものではないかと思いました。もちろんそれは住民の方の反論という形では出ませんでしたが、ある専門の雑誌にそういう文章を書いた記憶があります。
 けれどもいったん地域から反対されますと、やはり説明会というものを住民の方たちに対して持たなければいけないのですね。私たちは、12月に中学校の体育館を借りまして説明会をやりました。360人、370人集まっていらっしゃいました。私は設立代表ということになっておりましたので、一番前に座りまして、周りに行政の方がいて、自治会の役員の方が横にずらっと並んで、住民の方と質疑応答を行いました。ある問題には行政の方がお答えになったり、ある問題には私が答えたり、いろいろ質問がでました。その会の中で、「保育園が建つ時は誰も反対しなかった。保育園も福祉施設です。なぜそれに反対しなかったんだろう」という意見も出ました。「あ、この人はお仲間だ」と思いましたら、大学の社会福祉の先生で、密かに座って応援して下さったということがありました。会も終わりに近く、一番後ろで手を挙げられた赤ちゃんをおんぶした若い方が、「日浦さんに質問します」と名指しで質問なさいました。そんな体験は初めてですから、膝頭がガクガクしているような状態で、「日浦さん」と言われたので心臓が喉元まで飛び上がってしまいました。その方は、「もし施設ができたら、散歩にでますか。でませんか?」と聞かれました。「どうしよう。出るって言った方がいいのかな?」と、本当に私の頭の中は左右に揺れました。その方の顔を見ながら「出たいと思います」とお答えしました。そしたらその方が、「どんどん出てきて下さい。そしてお友達になりましょう」とおっしゃったのです。うれしかったです。本当にうれしかったです。そういう方がここに住んでいらっしゃる、この方を信じてみんなを連れていきたいと思いました。その発言が、結果的に、もしかしたら空気を和ませたのか、年が明けてゴーサインが町内会長から出ました。
 私たちは、今ある桂台という所に移って参りました。それまでは小さな作業所でやっていましたので、「みんなまるで夢みたい。夢ならさめないで」と、開所式でお母さんの一人が挨拶なさいましたが、それは皆の気持ちでした。後でスライド持ってまいりましたので、見て下さい。そんな建物、まさにみんなの青春の舞台です。舞台に引っ越してまいりました。
 「出たいと思います」そう申し上げた言葉通り、近くの公園にどんどん出かけて行きます。駐車場がたくさんいりますから、園庭が小さいのです。それからスーパーマーケットへも行きます。それから区民プールにも行きます。スポーツセンターへも行きます。チューブ栄養の人たちが買い物をしていても、今は何の不思議もないようです。「今日はお買い物?」「クッキングで今日はカレーにするの?」カレー粉が買い物カゴの中に入っているとそんな言葉が返ってきたり、「今日は寒いから気をつけてね。」と声をかけて下さいます。
それから夏祭り。これもみんなで参加します。盆踊りの輪の中で車椅子がたくさん動きます。それからバザーもやります。バザーは、今2000人ぐらいでしょう、街の方が12万の人口なんですが、なんだかバザーがいつのまにか『朋』の文化祭みたいになってきて、中学生も来る、高校生も来る、いろいろな方がいらっしゃいます。
 こんなこともありました。小学校との交流会というのは、いろいろな所でおやりになっていると思いますけど、私どもも前の小学校が道路を隔てた所ですから交流をやります。ある年のことです、車椅子は無理なのでストレッチャーに寝て、脳性麻痺で言葉が出ないけれども声が出る方がいらしたんです。いつも交流会の時は、職員が「こんにちは」と挨拶しているのですけど、その年は彼が「アーアー」という声で挨拶をしようと言うことになりました。彼は身体に力を入れる事でも意思を伝えてくれるものですから、「挨拶する?」というと、「したい」と力を入れたんです。前日に職員と打ち合わせしておいて、彼が「アーアー」と言うと「こんにちは」、また「アーアー」と言うと「今日はお招きありがとうございます」と言うふうに挨拶いたしました。緊張の強い人ですので、本当に小学生みんなの前で声がでるかなーと思ったのですが、彼は身体をコチコチにしながら一生懸命声を出しました。その事があって2日後、小学校の先生からお手紙をいただきました。
 『私はどうも交流会というのは大人のやらせのようですっきりしなかった。ところが先日、藤井さんがストレッチャーに乗って「アーアー」と言う挨拶してくれて、それを1年生から6年生までじっと聞いていた。やってもらっているのは私たちのほうなんだ。私はなんておごり高ぶった思いでいたんだろうと思いました。私たち教員が、言葉で子どもたちに十分に伝えることができない、一生懸命生きること、そして自分の持っている力を精一杯発揮するその大切さ、それを彼はアーアーと言う声で1年生から6年生までに見事に伝えていた。これからどんどん子ども達を『朋』へ遊びに行かせます。『朋』のお兄さんお姉さん、うちの小学校の子どもたちにいろいろな事を教えてやってください』と。
 それからまた2日後、男の子が二人と女の子が二人、「藤井さんいますか?」とやってきました。彼に小学生が遊びに来たけれど「どうする?会う?」と聞くと、「オー」と言ってストレッチャーでホールに出てきてくれました。小学生が4人、本当にコチコチになっているのです。「挨拶して、名前を言って」と言うと、「田中です」「熊田です」って、みんなコチコチになって、藤井さんのほうは「オーオー」とニコニコした感じです。彼は緊張すると手が上がってくるんですね。私が「握手してもらったら?」と言ったらその4人が「いいですか?」と一人づつ彼の手を握りました。一人は「ぼく、喘息に負けません」って言ったんですね。一人は「僕、頑張ります」って。本当にその時、今この4人の子どもたちの前から藤井さんが障害を持っていることは飛んでいって消えてしまっている、ここにすごい先輩がいるって、彼らの目には藤井さんがそう見えているんだなーと思いました。そういう出会いをいっぱい作りながら、15年間、『朋』はやって来ました。
 2年前、私はサポートセンター『径』という所に移りました。2年前にできましたが、やはりそこも建つと決まったときに町内会の方から、建設の同意書をもらわなければならないんのです。ここの土地は二つの町内にまたがっていましたので、二人の町内会長の所にご挨拶に伺いました。書類を持っていきました。お二人の町内会長さんはその場で「はい、いいよ」と判子を押して下さったのです。えっ、15年前は説明会をやったのにと思いました。一人の方は「いやぁ、『朋』があると心強いよね。みんなでいい街をつくろう」と言われました。その書類を持って帰りながら、「やったね、みんなすごいよ」みんなが、とにかくうちのみんなが、どこにでも出ていく、そして出会いをいっぱいつくって今は、街の人の頼りになっている。
 4年前、市長さんと懇親会をもったのですが、その時にボランティアさんの一人が、「地域が『朋』を包んでるんじゃない。『朋』が地域を包んでいます」とおっしゃったんですね。私はこの人、間違えちゃったのかなと思って、会が終わってから、「さっき言ったのをもう一回言って」と申しましたら、「地域が『朋』を包んでいるのではなくて、『朋』が地域を包んでいる」ともう一度言ってくださいました。それは、ここは新興住宅地で、周りに知人はいなかった。ところが『朋』ができるということで、みんなの関心がワーッと寄って、それで皆さんがいろいろな意味で関わり始めた。今では一年間に延べ2800人のボランティアさんとして、成人式に餅つきに行ったり、作業的なこととか、お掃除とか、お洗濯とか、『朋』の中でみんなで友達ができたってことをおっしゃるんですね。「だからそういうふうに言ったんだよ」ってその人がおっしゃってました。
 これはつい先日です。いつもうちで音楽の演奏をしてくださっている方が、実はお孫さんが生まれる事になって、その娘さんのご主人が、もし障害のある子が産まれたらっておっしゃってとても心配しているというのです。何かちょっとトラブルがおありになったようです。そのときに義理の母である彼女が「何の心配もないんじゃない。『朋』があるじゃない。何かあったら『朋』に相談しようよ」ってそういったのよと言ってくださいました。これは嬉しかったですね。「そう、『朋』があるよ」って。これは誰が作ったんでもない、みんなが作ったんですね。『朋』のみんなはしゃべれないし、歩けないし、呼吸だって楽ではない、自分で食べるのだって難しい。そのみんなが、「本当にここに生きているよ」ということをみんなの目に、いろんな場面場面で出会いを作っていく中で、そういう人が街の中に生まれてきた。
 私は今日、『地域が拓く難病の子ども達の可能性』というタイトルに加えて、もう一つ『地域を拓く難病の子ども達の可能性』と二つ書いてあったらいいなーと思いました。「どんどん散歩に出て下さい。お友達になりましょう」と言ってくださったその人を信じて動いてきたこと、そして出会いをいっぱいつくって経験をいっぱい積んで。自己決定と言う言葉がありますけど、これは経験がないと決められないですよね。スパゲッティもお寿司もラーメンも食べてない人にラーメンにする?、スパゲッティにする?、お寿司にする?、と聞いても分からないですよね。これを食べて始めてスパゲッティがいいよ、ラーメンがいいよと言えるわけです。経験をしなくてはいけないと思います。
 今からスライドを見ていただきたいと思います。

 “はらたけし”さん と言います。
 私たちが彼と出会ったのは、彼が中学校の義務教育を終えて『朋』に来たときです。彼は“ムコ多糖症のハンター症候群”、進行性です。私たちが出会った時、彼は15歳。彼はお話も、歩くこともできませんでした。養護学校では訪問教育と通級と二重の生活をなさってました。だんだん厳しくなるお子さんの状態、痰が絡んでくる状態の中で、お母さんは大変な不安を抱えていらっしゃいました。私どもでは成人のお祝いをとても大事にしています。20年という年月は大変な年月です。その20年、それを祝うという会は『朋』の中で一番大きな行事です。先輩の成人のお祝いの場で、お母さんが「うちのたけしは20年のお祝いはできないと思う」とおっしゃって、それ以後、私もなんとなくお母さんの前で成人のお祝いという言葉を使ってはいけないなーと、それぐらいお母さんはそれまでは無理だよと思っていらっしゃったようです。
 その彼が20歳で気管切開をして、それからまた1年経って挿管、肺の分岐の所まで深い管を入れなくてはいけない状態になって、もう座ることは無理でストレッチャーに寝てという生活になりました。病院の方で、そういう状態でずっと入院するのか、それともお家に連れて帰るかという話になりました。お父さんお母さんは是非お家に連れて帰りたい、それだからこそそういう深い挿管もおやりになったんですけど、そして今まで通り『朋』に通わせたいということをおっしゃったんですね。深い挿管のため、身体を起こしてはいけないということで、まっすぐに平らに寝た姿勢をとらなくてはいけません。身体を起こして、管がもし気管を傷つけたりすると出血が起きて窒息になってしまうから厳しいのです。お父さんお母さんは「今まで通りの生活をたけしに続けさせてやりたい。『朋』にも行かせてたい」とおっしゃいました。
 職員と話しました。「どうする?」そしたら職員の一人が「すぐ担架を作ろうよ。ベニヤ板で作ればいいじゃないか。それに持つところもつけよう。それに乗せればいいよ」するともう一人が「うちにはストレッチャーも入る大きな車もあるし、それを送迎に使えばいいよ」って。本当にパッパと話が決まりました。「じゃ、そうしよう」だれからも「いやー、ちょっと怖いよ」という言葉は出ませんでした。職員が「日浦さん、いつも言ってるじゃないの。悲しいことも、嬉しいことも、辛いことも、みんな家族と半分こ。怖いことも半分こじゃないか」と言いました。そんな皆の気持ちの中で、彼は6年、その後『朋』に通ってきてくれました。状態はだんだん厳しくなって行きました。
 私は、人間は思いの壷みたいなものをみんな持っているのではないかと思っています。ちょっと変な言い方ですが、それぞれ思いで壷がいっぱいになってくると、人は表現を始めると思っています。私たちはきっと壷が小さいのでしょうね。だからすぐいっぱいになって、相手が嫌だとか、なんだのいろいろな言葉になって表現がでてくる。嬉しいことももちろん言えます。ところが重い障害のある人は壷が大きいんだなーと思います。いろいろな事が入っていく、刺激も経験も入っていく、なかなかいっぱいにならない。いっぱいになったら、手を動かしたり、足を動かしたり、ニコっと笑ったり、嫌な顔をしたり表現が出てくる。表現がないから、そこに思いの壷がないと思ったら大きな間違いでちゃんとある。大きい壷の人は本当に一生懸命入れても入れても、なかなか表現がでてこないという人もいるんです。
 たけしさんの場合は、幼稚園には普通に行っていました。言葉を喋っていました。表現していたその言葉でのだんだん表現がなくなってきたんですね。でも思いの壷はちゃんとあるんです。思いはこの中に詰まっているのです。表現が出来なくなっているだけなのです。
 彼が『朋』に来てしばらくしてから、色々な音楽を聴いたことがあります。たまたま炭坑節がその中に入ってました。そうしましたら炭坑節がなったとたんに彼は目を大きく見開いたんですね。あれって思ってもう一回やりました。炭坑節で目がドングリ目みたいになっちゃうということで、お母さんに聞きました。お母さんが「あー、たけしはねえ、夏祭りが大好きだったからお祭りにはいつも行って、櫓に上がって太鼓を叩かせてもらったこともあるのよ」って。彼の壷の中にまだしっかり残っている。そこに私たちがどんどんアプローチして、一生懸命その壷を覗きました。それにたけし君がまた一生懸命目で答えてくれる。命も含めて、彼のそういう可能性にみんなで挑戦した26年でした。

 スライド 1:とてもかわいい赤ちゃんのときです。
 
スライド 2:これは4歳ぐらいですか。ちょっとお腹がポコッと出てきて、まだ元気なたけしさんです。
 
スライド 3:車が本当に大好きだったそうです。
 
スライド 4:ミニカーで遊ぶのが大好き。それでカーレースを見せに行ったり、いろいろな所にお父さんとお母さんが連れて行かれたそうです。
 
スライド 5:どこにでも連れていこう。いろいろな体験をさせよう。この頃お父さんとお母さんは、彼を連れて山へ行ったり海へ行ったりなさっています。
 
スライド 6:これは近所で遊ぶ彼です。
 
スライド 7:ご近所のお友達と何かの時の記念写真です。お通夜の時に遊んでいた何人かの青年達が来てくれました。
 
スライド 8:これは、幼稚園ですね。
 
スライド 9:これは卒園式です。お母さんとです。
 
スライド10:ここは小学校の特殊学級です。一番右側に彼がいます。
 
スライド11:卒業式が入学式かです。養護学校に入る直前の写真です。お父さんとです。
 
スライド12:これは、養護学校時代の彼です。ここから私たち、『朋』と一緒です。
 
スライド13:これが『朋』です。「夢なら覚めないで」と言った、これが建物です。10年間で3500万円、バザーをやったりいろいろなことをやって貯めました。それを持って横浜市にお願いに行ってできたのです。もう一回やれるかなと言うと、みんなもう勘弁と言います。母親たちが我が子に送ったこれは舞台です。もちろん父親もいます。私のところは母親しか話しに出ないと言われますが、もちろん父親もいます。父親はその後ろにいて母親を助けております。私はお父さんにはお母さんの活動に文句をいわないという形で支えてねとよく言います。
 
スライド14:これが『朋』に来たときの彼です。海辺での写真です。
 
スライド15:これは、中のホールです。こういう形で全員がホールに集まって、五つのグループに分かれて活動が開始されます。一番手前のベッドに寝ているのが小学校で挨拶した藤井さんです。
 
スライド16:これは江ノ電に乗っているんですね。電車に乗って出かけている時ですね。
 
スライド17:これはお祭りですね。彼はお祭りが大好きなので、お祭りにはかかさず出かけて行きました。
 
スライド18:それからだんだん具合が悪くなって、気管切開をしないと無理だなーと言われた時の彼です。今こうやって振り返ってみるとすいぶん痩せてきてたんだなーと思います。
 
スライド19:そうですね。もう挿管しています。この後これを抜くときは石灰で、これは大変な手術ということでした、これは障害の関係で首が短いんです。ですから、ここに一つ危険が伴います。お父さんとお母さんも非常に迷われました。でも可能性に賭けよう、家族と『朋』での彼の生活の中身も大事に考えようということで、手術に踏み切るということをなさったんです。きっと彼はそちらを選ぶだろうねということで。この手術の前日に、今でもお母さんが涙ぐみながらお話になりますが、『朋』の職員がホールにみんなが集まって、炭坑節とおそ松くん音頭と、とにかく盆踊りの歌を全部録音しまして、そして太鼓を叩いて「フレーフレーたけし。がんばれ、がんばれたけしー」とエールを入れて彼の所に届けたんですね。手術に向かう朝、看護婦さんがもう一度これを聞いて行こうかと言って、そのテープを彼は聞いて手術にむかったそうです。とってもいい顔をして手術に向かったとお母さんから聞きました。
 
スライド20:手術は成功しました。
 
スライド21:お母さんが無理だと言って半ばあきらめていた成人のお祝いができました。
 
スライド22:これは家族みんなの記念写真です。5人家族の長男ですね。
 
スライド23:これは『朋』の、今はもうやらないんですけど運動会で、彼が赤組の団長をやって優勝カップをもらっているときの写真です。みんながたけしさんを見ているその視線。皆の温かな気持ちをお母さんがこの写真に感じて、お母さんにとっては大事な写真だとおっしゃっています。
 
スライド24:彼は、園芸、植える、植物を見る、というのがまた一方で好きだったんですね。
 
スライド25:これが彼の毎朝の姿勢です。
 
スライド26:彼は稲をいただきに農家に行くという役割を持っていましたので、寝たきりの状態になってもそれはやっぱり続けようということで続けていました。彼は「稲作担当主任」という、妹さんの作った名刺を持っておりました。
 
スライド27:農家のおじさんとおばさんがたけしさんをいつも待っていてくれて「いい苗をよけておいたよ」と言ってくださって、ずっと交流がありました。
 
スライド28:これは新嘗祭をやった時です。おじさんもおばさんも来てくれました。
 
スライド29:お祭り、はっぴを着て、はちまきをして、さすがに向こうの広場には行かれなくなりました。それで、逆にお祭りが『朋』にいるたけしさんの所に来てくれることを交渉しまして、これ以後ずっとお祭りのおじさん達はたけしさんが元気な間、勿論今も続いておりますが、たけしさんの前でおみこしをワッショイワッショイとやってくれました。
 
スライド30:これは、車が大好きということで、外で車に乗せようと、職員が外車を借りてきまして。
 
スライド31:座席を倒して、そうっと彼を車に乗せて『朋』の周りを一周したこともありました。
 
スライド32:彼の大好きな事をみんなやろうねって。思いの壷に詰まっているものを引っ張り出して次々やった体験でした。これは温泉が好きということで一人の職員が一晩かかって群馬までお湯をとりに行きました。これはドクターが側についています。起こしたら危ないということなので、ドクターが横につきながら、そうっとお湯に浸かって、口をフーッと開けていますけれど、本当にアーと言うとても気持ちよさそうな顔をしました。
 
スライド33:その彼を支えた『朋』の診療所のスタッフと『朋』のナースたちです。
 
スライド34:最後は「ぼくが看取るよ」と言ってくださって、入院先としてはもう年齢を超えているのに引き受けてくださった子ども医療センターのドクター。月曜日に入院して水曜日に亡くなりました。お母さんの腕の中で。「お母さんがこんな事もあったね、こんな楽しい事もあったね」と、たけしさんの耳元で一生懸命にお話なさって、「そしてあなたは五人家族の長男として本当に立派に役割を果たしてくれたよ。あなたが家族であったということはお母さんは誇りに思うよ」と、耳元で話しかける中で大きな息を吸い込んで亡くなりました。
 
スライド35:そしてまた、そういう彼の生活を支えてくださった地域の方達。
 
スライド36:これは、一番たけしさんがありがとうと言いたかったお母さんとの記念写真です。これは亡くなるほんの数ヶ月前です。これは瞬間芸です。本当は抱いてはいけないんです。それを、「今、日浦さんいないからやっちゃおう」って、やっちゃったと言うのですけれど、私この写真を見てびっくりしました。彼ほほえんでいますよね。彼にはもうこういう表情は見られなくなっていましたのに、こんな優しい笑顔を見せています。お母さんは「たけしが生きていた時、たけしも私も輝いていた」とおっしゃっています。
 
スライド37:今、お母さんは大好きな陶芸をしています。『朋』の中で陶芸クラブを作ってやりながら、若いお母さんたちの相談にのって下さるという活動をしてくださっています。
 
スライド38:これが富士山が見える『朋』の真ん前の町並みです。ここで『朋』のたけしさんの友人たちが今日も元気に活動しています。

 スライドありがとうございました。
 皆の笑顔、これを私たちだけが独占してはもったいないとそう思います。20世紀は、本当に戦いと科学の世紀だったと言われます。できることは良いことだと進んできたこの20世紀。その価値観が今問われています。21世紀は、本当に人間の世紀にしていかなくてはいけない。重症と言われるみんなが示した人間が持つ可能性、そしてそのお子さんたちをできるできないは全く関係なく、ここに生きて、ここにいてくれてと、絶対的需要という言葉がありますけれど、その需要という言葉を心で受け止めた家族。私は人間を真ん中にすえた21世紀は、このみんなが作って行く、その最前線はこの障害のある方たちではないかと思います。
 実は1月9日に横浜市が市長発表としてこんな記事が出ました。親亡きあとと言うことを私たちは非常に心配しているということを、市長が『朋』にいらした時にちょっとお話したんですね。そうしましたら「ここまで頑張ってきた親の人を泣かせてはいけない」と市長が言われたことが動き出したのです。1月9日の神奈川新聞のトップです。「親亡き後行政が責任を持ちたい。条例化を目指して、それを具体化していきたい」と、本当に大きく新聞に出ました。そしてグループホームを増やす。入所施設も考える。それからヘルパー派遣、ヘルパーの養成もどんどんやって行くということを発表しました。高齢化問題が日本全国の問題です。でも障害の問題を放っておいてはいけないということを、横浜市長ははっきりと私たちに言葉として出してくれています。確かに重い障害の人たち、その生活を守っていくには安いお金ではとてもできないということも事実です。でもこれだけの街を作り、人のつながりも作り、いろんな形で人を結びつけていき、心の大切さをみせてくれる。これは誰か偉い人が演説をしてできるものではない。言葉ではない、本当に一生懸命に生きる姿勢の中から生まれてきているというふうに思います。ごめんなさい。もう時間がぎりぎりで少し超過してしまいました。
 最後に訪問の家が何を考えてここまで来て、今何を考えているか、ホームページに載せているのですけれど、ちょっと読みたいと思います。

生まれてよかったね
出会えてよかったね
そんな場所が欲しくて
朋は十五年前に誕生しました
出会いは次々広がって
笑顔が次々広がって
どんなに重い障害がある人たちも
地域の中で大きな『はたらき』
が出来ることを
人は人の中で輝くということを
可能性を信じる喜びを
みんなは教えてくれました
みんなを真ん中に、家族と地域と職員と
そこに医療と行政が加わると
大きな力になることも
私たちは学んできました
生まれてよかったね
出会えてよかったね
そんな街をつくりたい
そんな社会をつくりたい
これが今の『訪問の家』の願いです

 ご静聴ありがとうございました。


座長 高良 :日浦先生ありがとうございました。
 本日のシンポジウムのテーマそのものを、具体的に実践を通してご紹介して頂いたわけでございます。
 「てぃんさぐの会」発足の最初の動機、きっかけは、病院の中で年がら年中天井ばかりみて生活している人工呼吸の子どもたちが、何とかして病院の外に出よう、家族の一員として生きる方法はないものだろうか、そういうことから始まったと思います。そして家庭に帰る方法を、家庭で療育する方法を追求していければ、在宅人口呼吸療法ということでした。そして家族の中で、そして家庭で生活した中から、さらに家から外に出る。そして保育園へ行こう、幼稚園へ行こう、小学校へ入学しようとなってきたと思います。
 日浦先生の実践では、そういう子どもたちの可能性を追求して行くということですけど、その中で先生のお話のなかでは、こどもたちが逆に地域の生活の中に大きく影響を与えてくれるんだと。そしてそういう子どもが、みんなと一緒に生活する中で生き方を追求している。美しく生きる、楽しく生きる、そういうことが地域の文化ということだと思います。そういう文化をもっと豊かな形で展開していけたら、もっと全ての人が心豊かになれると思います。
 この後、シンポジウムのシンポジストがいろいろな立場から論議すると思いますけれど、今度のシンポジウムがどんどんますます盛り上がることを願っています。以上で終わります。



■参考■

講演録 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 原 順子

<原さんの講演録は、ムコ多糖症で亡くなった長男・岳史さんのことを、2001年127日(土) に、沖縄県名護市 万国津梁館 で開かれた てぃんさぐの会(沖縄小児在宅医療基金)で原さんがお話しされた講演録です>



製作:「朋の時間」製作委員会
配給:「朋の時間」上映委員会

(2003年度公開作品/ビデオ・長編ドキュメンタリー/カラー/123分)



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