映画 伝 承 -Transmission - 監督紹介と作品の誕生秘話


 ■監督紹介と作品の誕生秘話■




Yoshimitsu Watanabe

製作・撮影・編集・監督  渡辺祥充 プロフィール

映画「伝承-transmission」完成までの道のり




1959年12月5日、東京都港区にて出生(本名・渡辺義充)
美術系高校への進学を切望したが、中学の教師は合格圏内にある高校受験を強要。失意のうちに私立高輪高校へ進学するが、一ヶ月足らずで自主退学。

■これを機に不良化に拍車がかかり、暴力行為により15歳で保護観察処分。17歳で暴走族ブラック・エンペラーの赤坂支部長に就任。1978年11月、新道路交通法の施行直前まで走り続けた。その間、少年鑑別所二回、中等少年院には一回送致。当時のマスコミは渡辺の経歴に着目。1978年、キングレコードより「冷たい風の中で」作詞・作曲。1981年、八曜社刊「開東年少ブルース」を桝田武宗氏と共同著作。

■自分の進路を模索しつつ、ラジオ局のアシスタント・ディレクター、フリーのリポーターなどをつとめながら若者文化や社会問題、表現することなどに関心を深めた渡辺は映画監督を志し、1983年、暴走族の生き様を描いたドキュメンタリー映画「俺たちの生きた時間」の初監督を果たす。
 当初は自主制作で撮影を開始したが、編集作業(仕上げ)の段階で製作配給企業の参入を得たことにより、当初の渡辺の制作意図に反する第一回監督作品が完成した。

■大きな挫折感を胸に抱いて、ネパール、チペット、インドなどを旅した渡辺は、急速ににアジアの大地と風や空に傾倒してゆく。
 そして新作の構想を錬りつつ造園業・仏像制作等の仕事で資金を貯めながらスチール写真撮影の旅を繰り返した。

1984年、4名の仲間と共に撮影隊を組み16mmフィルムでクランク・イン。ついに「伝承」の撮影を開始する。

■あくまでも自らの力で資金を稼ぎだすことにこだわって本格的な撮影を続け、アジア広域に及んだスタッフとの撮影は1987年に一旦終了。その帰国途中、タイで最年少のスタッフ小泉雅彦(MAKO)氏が不慮の交通事故により急逝。
 深い悲しみの淵に立たされたその後も5年にわたり、たった一人での編集作業のかたわら、ひたむきに資金を工面して単身撮影を続け、1991年クランク・アップ。監督自身の手による編集で最終的に映像に残された撮影地は、タイ・インド・チベット・ネパールなど、
4カ国7カ所であった。
(制作詳細はカメラマン:鈴木正見氏による「伝承」の製作背景を巡ってへ)


1992年2月8日、東京六本木の自室にて急性心不全のため他界。享年32歳であった。
 枕元の編集卓には45分に編集された現在のフィルムが遺されていた。
(その後の作品の仕上げでは、一切、編集の手を加えていない)


■監督の死後、古い友人であった
山中茂(音楽:山中茂氏による「魂の行為」が音楽を担当し、「俺達の生きた時間」の協力者でもあったデラ・コーポレーションの江尻京子 社長(故人)の尽力を得て仕上げ作業が行われ、1992年末に映画「伝承」は完成した


注:渡辺「祥充」という名前は彼の死後、彼の母親によって改名された。
本名「義充」は名刀の名前からとったものである。




 兄の
 
 兄の精神

 兄(渡辺祥充)が逝ってしまってのは、92年2月、自室でまるで眠っているかの様でした。その部屋の編集机に、いかにも編集を終えたばかりに見えるフィルムが巻かれていました。そのフィルムは、彼が22歳頃から10年間近くにわたり、仲間と共に何かを探し求めて、タイ、インド、ネパール、チベットなどを旅しながら、感じるままにカメラをまわし、映像として撮り貯めたものが僅か45分間に凝縮されたものでした。実際にはかなりの量の撮影済みフィルムを持っていましたが、彼が幾度となく撮影、編集を繰り返し、納得のいくまで突き詰めた結果、最終的にこういう形になったのだと思います。彼は中途半端なことが嫌いだったので10年間もかかってしまったのかもしれません。
 彼が生前「人を感動させるようなモノをつくりたい」と言っていたのを思い出します。視る人によって感じ方はそれぞれ違うとは思いますが、言葉では表現できない、それでも視た人の心を動かす不思議な力をこの映像は持っていると思います。兄が逝ってしまってからもう6年が経ちますが、彼の精神は今でもこもフィルムの中で生き続けている様に思います。

1998年春 実弟 渡辺政充