●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)

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灰色の中に光るなにかが・・・

       鎌田絢子


 智子さんは、この春から中学2年生。目が見えないこと、寝たきりのこと、気管が弱いことなど、智子さん自身も世界を広げるのが難しく、育てる上でも苦労の多いお子さんです。お母さんも十二指腸かいようになり、学校へ通学するようになってから、2年間に2度、智子さんは施設へ入りました。何事も全力投球の鎌田さんですので、少し疲れたなという時に、いつでも短期間、智子さんを預けられるところがあればよいのにと思います。きれいな音楽に耳を澄まし、ニッコリする智子さんの笑顔は絶品です。


いちねんせい

 「お嬢さん、ご病気なんですって?」
 「そう、重症心身障害児なんですの」
 「それは大変・・・・・。どこかの施設にでも入ってらっしゃるの?」
 「南区の中村小学校にある養護学校の分教室へ通ってるの。中学2年生なの」
 「あら、じゃ、色々勉強しているのね」
 「いいえ、なんにもできないの」
 「でも、歩けなくても、手が使えなくても、口で絵をかいたり、詩をつくったりできるじゃないの。」
 「宮城まり子さんの映画だと、そういうお子さんもいらっしゃるけど、分教室のお友だちはみんな最重度だから、なにもできないの」
 「智子の場合も生後3ヶ月の赤ちゃんがそのまま14歳になり、3食どろどろの離乳食を食べているの。そういう子どものことを想像してみて」
 昔の友人は、電話の向うでハッと息をのむようだった。
10年ぶりにあった叔母は智子を見てこんなことをいった。
 「あら、この子、体は大きくなったけど、食べるのは10年前と同じじゃないの」
 「そうよ」
と、私はバナナをつぶし、パン粥にまぜ、スプーンでひとさじずつ、わが子の口へもっていく。口の中から半分以上もつるっと出てしまうので、スプーンで受けとめ、また口の中へ入れてやる。食器の中味はいっこうに少なくはならない、でも、私はもう焦ってはいない。
 脳性小児麻痺・・・・・・。
その事実を医師に打明けられた時・・・・。そして深い悲しみと悩みの歳月・・・・。
 人生は灰色であった。14年たった今も灰色である。いつかそれがピンクやバラ色にかわるとは思えない。そんな幻想を抱いたこともない。
 でも、今は灰色の中にも小さくかすかに光るなにかがあるように思う。
 「神は耐えることのできない試練にあわせ給うことはない」
 という言葉が真実であるなら、寒い冬が過ぎ去り、土の下からふっくらした芽が出てくる春になるまで、じっと我慢して耐えるだけのことである。
 智子は私に耐えることを教えてくれた。150Mのミルクを飲ませるにも30分も40分もかかり、夏場は飲んでいるミルクが腐るのではないかと思うほどである。飲みこむという本能をどこかに置き忘れてしまったままなのか・・・・。
 仮死状態で生まれて以来、人工栄養であったがおなかをすかせた智子は一生懸命飲もうとする。飲もうとすればするほど、哺乳びんの乳首に吸いつくことができず、じれてわあわあと泣く。
 若かった私は、必死で片手に抱きかかえて、何度も何度も乳首を口もとへもっていく。こんな時はくしゃみもだめ、わき見もだめ、電話、押し売り、来客すべておことわり。母子ともども汗でびっしょりになってしまうのだった。
 智子の下に続いて2人の弟ができた。その出産と育児のために、智子は重症心身障害児施設の「小さき花の園」に4年間入園させてもらった。その間、つきに一度の割合で帰宅訓練があったが、小さな子どもたちを放っておくこともできず、帰宅時間に備える訓練というより、てんてこまいの、その場しのぎといったものだった。
 やがて、家が横浜市に引越したこと、次男も2歳になり、両親とも健康なので、家庭で療育した方がよいということで退園せざるを得なくなった時、とても引き取る気持にはなれなかったものだった。父親は朝早く出勤すると、何時に帰宅するかわからない。月曜から土曜まで、一日も夕食を家でとらないこともある。のちに子ども達のいう“お父さんなし”での毎日である。私一人で、片時も目が離せない智子と、二人の弟たちのことをどうやりくりしていけばよいのか。まったく途方にくれてしまったのである。
 智子が在宅になると、長男は幼稚園、次男は四年保育の保育園へとそれぞれ送迎し、目のまわる毎日だった。いつも車で走りまわり、食事の支度と洗濯ばかりだった。ぶらぶら歩きながら買物をすることもなくなった。
 あちこちのお宅の庭を眺めて、”あゝ春になったんだわ“とか、”あら、もう秋が間近なのかしら“などと思うこともなくなった。そんな自分に気がついて淋しくなるのだったが・・・・。
 そうした中で、幼い弟たちの姉に対するやさしさが大きな慰めだった。4歳年下の長男はものごころがつくようになると、よくはいはいしながらタオルをもっていき、姉の顔や口をふいてくれるのだった。智子は迷惑そうにしていても嫌がらず、じっとがまんしていた。
 その二人が昼寝をしている間に、私は次男を背に買物に出かける。留守の間、たまたま長男が目をさましたのか、智子にぴったり寄り添って指をしゃぶっていることもあった。やがて智子は中村分教室へ通うようになったが、6歳年下の次男は、その授業や給食、学習発表会などに興味をもち、智子のことをなんでも知りたがるのである。
 ところで、父親も決して協力的でないのではない。たとえばお風呂である。私ひとりでは入れられないので集に1回か2回になるのだが、いつも次のような調子である。
 ついこの間も、夜8時すぎに電話があり、
 「これから帰る。智子を風呂に入れるから、支度をしておくように・・・・。」
さあ大変。ばたばたと準備をして・・・・・。やがて、久しぶりのお風呂では、お父さんの歌謡曲を聞きながら、
 「ふーん、ふーん」と、智子はごきげん。
 あれから14年・・・・・。今は少しずつ自分の時間がもてるようになり、なにかまとまったものをやってみようと保母の勉強を始めている。
 重度心障害児の療育に関しては、私はプロだと思っている。14年間もわが子をみつめ、守り育ててきたのだから・・・・・。智子とともに通っている中村分教室で、新任の先生が苦労して給食介助にとりくんだりしている姿をみるにつけ、なにかしらこんな自分に自信がわいてくるのである。

●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)


「わが子」目次

はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
灰色の中に光るなにかが・・・‥‥‥‥‥‥ 鎌田絢子
悦子は私 私は悦子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 芝山政江
教えられたチーム・ワーク作り ‥‥‥‥‥ 安達恵美子
「訪問学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
子どもの笑みは愛の色 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 依田千津子
いい思い出を固形スープのように ‥‥‥‥ 駒田和子
「訪問指導」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
もしも、ぼくが話せたら・・・ ‥‥‥‥‥ 歌川敬子
好きも嫌いも体で表現 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 赤坂あき子
元気で ゲンマ! ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 山口芳子
「母親学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
母親教室は心の支え ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 鈴木日奈子
動かぬ右手も幸せを ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 永吉チエ
わたしとわが子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 坂田佳子
「訪問の家」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江


番外編
講演録 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 原 順子

<番外編・原さんの講演録は「わが子」に掲載されていたものではありませんが、ムコ多糖症で亡くなった長男・岳史さんのことを、2001年127(土) に、沖縄県名護市 万国津梁館 で開かれた てぃんさぐの会(沖縄小児在宅医療基金)で原さんがお話しされた講演録です>



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