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好きも嫌いも体で表現

       赤坂あき子


 出会った時の赤坂さんは、髪を腰まで伸ばして一つに束ね、お化粧気のない本当にきれいな若いお母さんでした。
 直美さんが入学の時、三歳だった弟の幸大君も今年は一年生。最近の赤坂さんはそれなりに貫禄が出て、しっかり大地に足をつけた頼もしいお母さんと言う感じがします。
 「直美がいたから、家族の心がバラバラにならないで今までこれたと思います。どうしても強くなりますね」
 二、三日前の赤坂さんの言葉です。


 真冬のまっただ中というのに、なま暖かい風が吹く、まるで春を思わせる日・・・。
 昭和四十七年一月三十一日、日曜日。直美が生まれました。体重三千九百グラム、身長四十九・八センチ。思いもよらぬ大きさに吸引分娩でしたが、喜びもひとしおでした。
 しかし、その喜びもつかの間、一ヶ月検診の前日、直美の右手右足がはげしく震えだし、突然の出来事に、目の前が真っ暗になってしまいました。
 “もしかしたら”
とっさに頭をよぎった予感が的中。病院での診断は、やはり脳性小児麻痺でした。幸せにひたりながら、この子の将来にえがいていた夢は一瞬にして消え失せてしまいました。
 その直美が、私にとっても、我が家にとっても、なくてはならない大切な存在になろうとは、思ってもみなかったことですが・・・。
 今、ふり返ってみますと、直美が小さい頃は、体のことばかり案じて過ごす毎日でした。
 二歳になるまでは、風邪や発熱をくりかえし、何度か肺炎になったりで、病院通いの連続でした。そのうえ、麻痺した筋肉の悲しさ、直美は自分で寝返りをうつこともできず、わずかに手足を動かすだけ・・・・。名前を呼んでも反応を示すことがありませんでした。
 それでも、“だっこ”されるのだけは嬉しいらしく、声をあげて喜ぶのでした。そんな笑顔を見るのが、私には最高の喜びでした。
 その後、三歳、四歳となるにつれて、徐々に寝返りができるようになり、五歳頃には、玄関にころげ落ちて顔をよごしていたりするようになりました。音にも好き嫌いができて、六歳の誕生日頃には、座ることができるような兆しも見えてきました。 
 自分で動けるようになると、もう大変。
 戸を開ければ、寝返りしながら私の方へやってくるし、音がすれば風呂場でも台所でも、ゴロゴロころがってついてくるのです。ここまでくると、もうかわいくてかわいくて・・・。“次は何ができるのかな”などと、楽しさに胸がふくらんでくるのでした。
 九歳になった今・・・。 
温かく自分をかまってくれる人と、そうでない人を区別するようになり、好き嫌いも体で表現。色も見分けるようになりました。普通の子どもなら、とるに足りないことです。でも直美にとっては、ごくわずかなことでも、素晴らしい進歩なのです。これも教育訓練のおかげですが、ここまでに直美がなるとは、考えてもみないことでした。 
 外へ出れば障害児という目で見られるけれど、家の中ではこの子が障害児だなんて一度も思ったことはありません。直美の笑い声が聞こえない日は、何だかさびしく感じられ、この笑いが家の中を明るくし、私にとってなくてはならない幸福感を味わせてくれる存在となりました。
 わずかずつでも成長していく直美に、心から拍手をおくりたい気持ちです。

●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)


「わが子」目次

はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
灰色の中に光るなにかが・・・‥‥‥‥‥‥ 鎌田絢子
悦子は私 私は悦子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 芝山政江
教えられたチーム・ワーク作り ‥‥‥‥‥ 安達恵美子
「訪問学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
子どもの笑みは愛の色 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 依田千津子
いい思い出を固形スープのように ‥‥‥‥ 駒田和子
「訪問指導」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
もしも、ぼくが話せたら・・・ ‥‥‥‥‥ 歌川敬子
好きも嫌いも体で表現 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 赤坂あき子
元気で ゲンマ! ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 山口芳子
「母親学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
母親教室は心の支え ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 鈴木日奈子
動かぬ右手も幸せを ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 永吉チエ
わたしとわが子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 坂田佳子
「訪問の家」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江


番外編
講演録 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 原 順子

<番外編・原さんの講演録は「わが子」に掲載されていたものではありませんが、ムコ多糖症で亡くなった長男・岳史さんのことを、2001年127(土) に、沖縄県名護市 万国津梁館 で開かれた てぃんさぐの会(沖縄小児在宅医療基金)で原さんがお話しされた講演録です>



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