●昭和57年に発行された「わが子」・「母親学級」のこと より(部分)

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「母親学級」のこと

日浦美智江

 中村方面分教室の中には「母親学級」という木札の付いた教室がある。これは、訪問学級以来週一回続けられてきた母親学級を分教室でも引き継いでいるからである。
「訪問学級」では、子供の障害が重いことから健康管理を最優先とし、学校には、母親が付き添ってくるというシステムになっていた。この為、子どもが授業を受けている間、母親もソーシャルワーカーの担当する母親学級に週1回参加することが義務付けられていた。現在、母親の付き添いは、徐々にはずされてきているが、やはり週1回の母親学級への参加は半ば義務付けられた形で続けられている。母親の付き添いを条件とした「訪問学級」時代、母親学級 = 私たちはこれを母親グループと呼び活動はすべて中村小学校、訪問学級、母親グループとして行ってきた= の責任は大きかった。何故なら母親が他の人とのトラブルとか母親学級の学習が重荷という理由で通学意欲を無くした場合、即座に子どもの登校が不可能になるからである。この為、先ず、母親グループを気兼ねのないくつろげる楽しい場にすることが大前提であった。
 母親学級の目標のひとつは、障害児教育の意義の認識である。障害児教育において「母親を教育の協力者にすることが出来たらその教育の大半は成功した」又、「教師と母親が車の両輪になることが理想」といわれる程母親の存在は大きい。ただ、可愛い、可愛い子どもを保護するだけの母親、家族から孤立して不憫さだけで子どもを熱愛する母親、この子さえいなければと心の中で拒否し続ける母親、何とかして少しでも子どもの知恵の開発に繋がればとあちこちと奔走する母親。様々なタイプの母親達に、先ず学校教育の意義を理解して貰わなくてはならない。教育の意義の理解が不徹底だと当然教師との足並みが揃わなくなるからである。母親学級が子どもの教育の場と同じ場でもたれていることが、母親達が障害児教育を理解する上で大きなメリットとなった。
 「この子はこれしか食べません」と頑固にカステラを食べさせ続けていた母親が教師の手でパンを食べている我が子を見たり、どんな小さな変化でもその子なりの成長として大きな声で喜び合っている女性教師の姿を見たり、トイレの中で子どもに楽しく語りかける男性教師の姿を見たりすることは、親の教師への信頼の糸口となり、教育を考えるきっかけとなった。今迄何も出来ない、例え何か出来ても健常児に比べればとるに足らないことだと無感動に見てきた子どもの変化が、その子の能力の中では、百点満点をとったことに等しいと母親が気付くと母親の子どもを見つめる目が大きく変わってくる。そして、教師と共に心から子どもの成長を願い喜ぶ母親が生まれてくる。
 初年度の二学期の母親学級でのこと。一人の母親がある出来事が引き金になり死にたいと海へ行ったのだが学級のメンバーみんなの顔を想い出し、ここで負けたらみんなに笑われると思って、帰ってきたと泣きながら報告したことがあった。この時、誰も何も云わず何分かの沈黙が流れたのであるが、その沈黙の中で、各々の胸の中に同じ思いを体験したことのある仲間としてのいたわりが流れ、みんなの気持が一つになったのを感じた。転校した親子が遊びに来るとよく母親が「里帰りしてきました。」と言う。何でも安心して話せる仲間の中での気持の解放は、又もうひとつの母親学級のねらいである。
 母親はまた、家族の中で妻であり主婦でもある。そして子ども達は家族の一員なのである。この「家族」の問題を考えることも母親学級の大きなテーマとなっている。子ども達に言葉がなく、更に歩くことが出来ない場合、家族の中でやはり子ども達は一番弱い存在になる。欠席の理由の中に事故欠席(本人の病気が欠席の理由ではなく、母親側の都合による欠席)が多いことからもそれは容易に推察することが母親の中に身体的、精神的「ゆとり」があって始めてふり返って貰える子ども達と云えば少々云い過ぎとは思うが、心にかかりながら、「ゆとり」がないとその子の為の時間はとり難いし、とれないということも事実である。この為の家族ケアも又母親学級の役割である。母親の精神衛生に最も大きく係わる人は、言う迄もなく夫の存在である。夫が理解してくれない、手を貸してくれないと嘆く母親は多い。父親には仕事がある。これが一家の主人としての第一の任務であり、家庭の中のことは母親が行うという社会通念は、障害児をもっても同じであるが、やはりここで一般の場合より少しばかり多くの心配りを母親にして欲しいと父親に望みたいと思うのである。父親は我が子以外の障害児と出会うチャンスが母親より少ない。父親参観日も仕事の都合で無理ということで欠席が多い。が、やはり、父親に母親の第一の相談相手になって貰わなくては困るということから母親学級では、昭和51年の夏から家族ぐるみの1泊研修を試み、その夜、父親研修会をもつことを続けている。(57年度は、7月24日〜25日、箱根小涌園を会場に、18家族10人の父親、総勢78名が参加)研修会の席で、「うちの女房があんなに楽しそうに笑う顔を本当に久しぶりに見ました」「うちの子よりまだまだ大変なお子さんがいるのですね」「昨日迄は何となくコンプレックスを感じ、会社でもうちは他家と違うのだとひがんでいたけど、明日からは胸を張って会社にいきます」という言葉が聞かれ、そんな夫の言葉を聞いた母親の表情が明るくなる例をいくつも経験している。最近は、母親達もこの1泊研修を利用して、仕事、仕事と逃げる父親を引っ張り出す作戦をたて子ども達への教育を理解して貰おうと努力している。「最近、女房が張り切っているので気持ちがいいですよ。」という父親の言葉を聞くと、先ず母親が、子どもの為に家族の中で良き演出家になることの意識の大切さと母親を通し家族ケアを行うことの重要さが教育の場でもっと考えられてよいのではないかと思う。子どもを通学させることは親ならば当たり前と考え、従来の「学校」という形式を前面に押し出すと、親と子にとって大きな励みとなるべき「学校」が逆に大きな負担となる危険性を感じるからである。

●昭和57年に発行された「わが子」・「母親学級」のこと より(部分)


「わが子」目次

はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
灰色の中に光るなにかが・・・‥‥‥‥‥‥ 鎌田絢子
悦子は私 私は悦子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 芝山政江
教えられたチーム・ワーク作り ‥‥‥‥‥ 安達恵美子
「訪問学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
子どもの笑みは愛の色 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 依田千津子
いい思い出を固形スープのように ‥‥‥‥ 駒田和子
「訪問指導」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
もしも、ぼくが話せたら・・・ ‥‥‥‥‥ 歌川敬子
好きも嫌いも体で表現 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 赤坂あき子
元気で ゲンマ! ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 山口芳子
「母親学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
母親教室は心の支え ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 鈴木日奈子
動かぬ右手も幸せを ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 永吉チエ
わたしとわが子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 坂田佳子
「訪問の家」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江


番外編
講演録 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 原 順子

<番外編・原さんの講演録は「わが子」に掲載されていたものではありませんが、ムコ多糖症で亡くなった長男・岳史さんのことを、2001年127(土) に、沖縄県名護市 万国津梁館 で開かれた てぃんさぐの会(沖縄小児在宅医療基金)で原さんがお話しされた講演録です>