「訪問学級」が開級して7年、最初の卒業生を送り出す時が来た。母親達は、この学校での幸せが有限であることをいやでも認めなくてはならなくなった。仲間を得、更にわが子を信頼し任せることの出来る教師と出合い共に子ども達のために心を合わせ、励まし合い、やっと心の安らぎを得た思いの母親達にとって、この学校からの絶縁は、再び孤独と不安な日々に戻ることを意味する。これは、母親達の言葉を借りれば恐怖に近いものであった。
例え、卒業しても、今の生活に近い暮らしを続けていきたい。即ち、仲間と集い、励まし合い、子ども達が力いっぱい生きられる場を与えてやりたい。中学校卒業後3年間の高校生活の保障を市へ陳情するより、3年後に再び学校との別れがくるなら、再び別れのない一生の生活設計を早く立てることを選ぼう。子ども達には、学校生活に準ずる生活訓練の場を、母親達には、学び合い、社会とつながっていける場を何とか作り出したい。
こうして一つの結論が出たところで、母親グループは、机の上での話し合いを止め、行動を開始することにした。
何をどうやって、どこから手をつけて行っていいのか、ただ夢だけあって暗中模索の中で、素手で、市へ陳情ということだけはしたくないと思った。私達は、ここまでやりました、ここからはお願いしますという話なら一方的な単なるお願いではない、胸を張っての交渉にしたいと意気だけは盛んに、先ずは資金集めのバザー開催を活動の第一歩として踏み出した。バザー会場は中村小学校体育館。誰もが外部への働きかけを伴ったバザーなどの経験はない。今思い返すと、唯々がむしゃらに印刷物を作り、自動車で荷物を集めて走り廻った。値段をつけ、寸借惜しんで作品を作った。その間に喧嘩もした。放り出した人もいた。なんとなくみんなのベースにのれなくて雑巾を一枚縫っただけという人もいた。
がともかく、バザー当日は、子どもの病気で欠席した一名を除き、全員が夢中でがんばり、地域、各関係機関の協力もあって、100万円近い収益をあげることが出来た。そしてバザーの後も、好評だった軍手から作る猫の指人形に「ロロ」という愛称をつけ、製作、販売を続けた。
昭和53年、ちょうど私達が150万円貯めた時、横浜市が、障害者地域作業所補助金制度をうち出した。これは上限を1500万円とし、その建物にかかる費用の4分の3を市が負担するというもので、その後の運営費は県と市が半々で年間350万円を補助するというものであった。この制度の適用を受けようと、私達はこの制度に飛びついた。が、この制度には、土地の提供はうたわれていない。最も困難な土地探しは、そちらでどうぞなのである。が、こちらも当たって砕けろ、片っ端から、ここぞ、これぞという情報、人を求めて尋ね歩いた。来年の3月には3人の卒業生が出る。この3人を例え半年間でも在宅だけという生活に戻したくない。53年の秋は、今思い起こしても胃の痛む思いがする程切羽詰まっていた。
何人かの人を尋ね、そろそろ寒さが身にしむ10月末、今の「訪問の家」の地主、織茂大策氏と出会った。紹介状もなく、押し売りよろしく飛び込んだお宅で、72歳の織茂氏にこちらの話がどんどん伝わっていき理解して貰える手応えを感じた時の驚き。そして何回かの話し合いの後、5年間という期限付き(自分の生命に長い年月の保障の自信がないということで)でよかったら、無償で、120坪の自分の土地を提供しますよと云われた時の感激。様々な人を動かす力をもっている、魅力をもっている。織茂氏からどうぞという返事を頂いた時、先ず頭に浮かんだのは無心な子ども達の顔であった。
土地はなんとか見つかったが、果たして市が私達の「家」を障害者地域作業所と認めてくれるかどうか。この時、私達の大きな味方となって下さったのが、横浜市在宅障害児援護協会で、私達と共に市を説得して下さった。
障害が重いから余計、その子の生きる誇りとなる場がいる、機能を低下させない場がいる。そして何とか、子ども達は生活訓練を受け、親が子どもに代わって、作業のイニシアチブをとるという変わった作業所が制度になることになったのである。
建物の広さ97.8F。かかった費用は、8,451,607円。うち6,308,000円の補助を受けた。
女ばかりで、住宅の確認申請をとり、間取りを考え、プレハブ業者に発注し、調度を整え、兎に角よく走った。父親達もそんな忙しく走り廻る母親達に、文句を云わないということで、協力してくれたし、垣根作り、棚作りには、勤労奉仕の協力も申し出てくれた。
そして、私達が頭の中に、こんな家が欲しいねと話し始めて3年目、昭和54年4月14日、「訪問の家」は、横浜市港南区野庭町に開所したのである。「訪問学級」第一回の卒業生3名は、学校の門から真っ直ぐ障害者地域作業所「訪問の家」へ入ることが出来た。
「訪問の家」を作る過程の中で、母親達は子ども達が健常児なら恐らく味わうことのない、肉体的、精神的緊張を味わってきた。この子をもったことで、世の中を諦めて生きては負けだ、この子がいたからこそこれだけ出来たという人生にしなくてはと何度も話し合った。母親が母親という役割にプラスして、女性として、人間として生きていてよかったという充実感、自分が生きている意義と価値を子どもと社会とのつながりの中で見出し得た時、障害児はマイナスの存在ではなく、母親を通してプラスの存在となる。義務教育後の子ども達の為の施設作りを、ただ行政に陳情するという形ではなく、自分達の希望を自分達の手を実現させる苦労を選んだのは、障害児を抱えて誇りをもって生きていく姿勢を世の中に、そして自分自身に示したいと考えたからであった。ここ迄来て、やっと母親は被害者意識から解放されるのではないだろうか。「訪問の家」作りに懸命に努力した意図はここにもあった。
「訪問の家」作りのリーダーとなり、先天性筋ジストロフィーの女の子を抱えて東奔西走し、更に現在、「訪問の家」代表となり陣頭指揮に当たっている本間恵美子さんが、いつか、「障害児を育てていくことは、自分の中にある怠け虫と戦うことです」と話したことがある。物言わぬ子の気持を察し、こうしてやることが、ああしてやることが、この子にとって良いことなのだ、プラスなのだと思いをめぐらせ、そのことを実行に移すことの大変さ。子どもが大きくなり、親は年をとる中で尚、まだ自分を表現することの乏しい子どもとの対話を持ち続け、体を動かし続けなくてはならぬ試練。「神は耐えることの出来ない試練に合わせ給わない」ことを信じ、「母は強し、母は強し」と呪文を唱え、頑張り続ける親に、無責任な慰めの言葉はかけられない。
「訪問の家」開所前日、掃除をしながら、「この柱一本、床板一枚、いとおしいね」と語り合った「訪問の家」も、今年で3年目。様々な方々の支援に恵まれた幸運を思う。活動の第一歩から母親達にいやな顔を一度も見せず時間外も構わず子ども達の面倒を見、母親達を自由に走り廻らせて下さった「訪問学級」の金井先生初め諸先生方、中村町という地域の中にすんなり受け入れ、バザーでは品物集め、販売に心よく協力して下さり、運動会、学習発表会には、子ども達に暖かい拍手をして下さる中村小の父兄の方々、中村小学校の設備を心よく提供して下さったり、絶えず母親達の活動を支持し、励まして下さった中村小学校、加藤校長初め諸先生方、突然ワゴン車で荷物をたくさん運んで来て寄付を下さり、以後「くされ縁だね」と憎まれ口をきき乍ら現在まで変わらぬ援助をして下さる、「いずみ」ふとん店の藤本さん。それ迄は家庭の主婦専業だったのに何かお手伝いが出来ればと「訪問の家」開所以来、子ども達の、そして運営のお手伝いをして下さっている心強く頼もしい指導員の方々。今「訪問の家」は会員も16名に増え、すっかり地域の中に溶け込み、野庭地区の幼稚園、高校のバザーに参加し、多くのボランティアの人たちに助けられ、かって母親達が机の上で描いたヴィジョンの実現を試しみている。
土地の借用期限も2年後に迫った。これから中村分教室の卒業生も次々に「訪問の家」に集まることだろう。重い障害をもつ子ども達の生き甲斐となる場はまだまだ少ない現在、「訪問の家」の必要性は更に増えていくことと思う。今でも全員集まると息苦しい狭さになった建物も一日も早く広く本格的なものにしたいまだまだ難問を抱えてはいるが、苦労は生き甲斐につながると開き直れるしたたかさも母親達は身につけた。このままいけば「訪問の家」は親達の老人ホームも兼ねなくてはねと笑いながらがんばっている「訪問の家」の人達である。
●昭和57年に発行された「わが子」・「訪問の家」のこと
より(部分)