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動かぬ右手も幸せを

       永吉チエ


 三年前の秋、永吉さんはスクールバスが学校へ到着した直後倒れました。くも膜下出血でした。以来、右半身不随で右手が全く使えません。でも、その入院中、緊急一時保護で施設に預けてあった京子さんを、退院したらすぐ、自分の手もとでみたいからと、引きとった永吉さんでした。だんだん大きくなってきた京子さんの“全介助”は日ごとに大変です。どこまでできるか、やれるだけやってみます。という永吉さんの中に、「母は強し」という言葉が浮かんできます。
一永吉さんは今、字を書くことができません。そこで、録音テープに話を入れてもらい、それをまとめました。


 京子は四月十八日十一時頃、助産婦さんの所で生まれました。次のお産の人がいた為オギャーオギャーと泣いているのに、一時間も放っておかれたのが可哀想でたまらなかったのを憶えています。
 その後、すくすく育っていたのですが、生後六ヶ月、顔にブツブツが出来たのが広がって、ひどい湿疹になりました。つづいて七ヶ月の時、突然、全く突然、ロウ人形のように真っ白になり、意識を失いました。驚いて病院に連れていくとケロッとしたのですが、今でもどうしてそうなったのか分かりません。
 皮膚の湿疹がひどくなり、市大病院の皮膚科に行ったところ、子ども医療センターに行くようにいわれました。そこで普通の子どもではないといわれましたが、脳性マヒだと知らされたのは児童相談所からです。それまで、変だからと整形外科や身障センターにも行ったのですが、どこも悪くないから訓練の必要はないといわれていました。マヒがなかったからでしょう。その間も皮膚湿疹がひどく、とれた皮がすくうほどあり、私は湿疹を治す方にばかり気をうばわれていたようです。脳性マヒといわれたのですが、一歳の時、私の手をつかんで立っていましたので、一体どこでそういうことになったのか、高熱を出したこともなく、原因がわからないのです。心当たりはあの七ヶ月の時のロウ人形になったことですが、お医者さんは、それが原因じゃないだろうとおっしゃいます。
 当時、主人は連日酒びたりで、何の相談相手にもならず、病院通いも全部一人でやりました。近所の人がよくして下さったことが支えでした。野庭団地へ入居申し込みも、手続きもみな私がしました。子どものこと、家のことは何もかも私がするという生活が続きました。
 野庭団地に引越したころ、よく夜中なのに泣きやもうとしない京子をおんぶして外を歩きました。そうすると京子は、キャッキャッと声を出して喜ぶのです。もともと血圧が高いのに、ほとんど眠っていないような、そんな毎日が続いたのが倒れる原因だったのかと思います。
 今から三年前、京子が二年生の秋でした。スクールバスが学校へ着いたとたん、気持が悪くなって倒れたのです。くも膜下出血で四ヶ月入院しました。
 私が倒れてから主人のお酒が少くなり、施設に保護されていた京子を早々に引き取ってからは、今までが信じられないほど可愛がります。不思議なことに、いくらお酒を飲んでいる時でも、京子の障害を恨む言葉を主人から聞いたことは一度もありません。
ただただ京子が可愛くて、私が入院し、京子が施設に入っている間もよく家で泣いていたようです。姉の明美には、口答えするせいか、主人もつい手を上げたりしますが、京子にあたることは絶対にありません。
 昔は、私がどんなに熱があっても主人は手伝ってくれず、体を引きずりながら京子に食べさせたり、つらい思いもしました。が、今は私が頭が痛いというと、「早くお母さんを寝かせなさい」と明美にいったりします。私が倒れたことが主人を変えたのか、私も主人の優しい気持ちにやっとふれた思いです。体の不自由になった私と京子を、明美と二人で私の郷里、新潟へ連れて行ってくれたり、車の運転を習って家族をどこかへ連れて行くという主人をみるとうそのようです。
 家族の幸せを得るために、私の右手右足は犠牲になったのかなと思ったりしますが・・・・・、またそう思うしかないのです・・・・・。
 これから、京子は生理の問題も出る年頃となり大変ですが京子がいるから、私も頑張れるだけ頑張って、ここまで回復したのだと思います。先日もタクシーに乗ったところ
 「二年前も奥さんを乗せたけど、随分良くなったね」
といわれびっくりしました。
 どこまで、京子を見ていけるか分かりませんが、家族みんなで暮らせる幸せを守ってがんばって行こうと思っています。

●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)


「わが子」目次

はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
灰色の中に光るなにかが・・・‥‥‥‥‥‥ 鎌田絢子
悦子は私 私は悦子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 芝山政江
教えられたチーム・ワーク作り ‥‥‥‥‥ 安達恵美子
「訪問学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
子どもの笑みは愛の色 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 依田千津子
いい思い出を固形スープのように ‥‥‥‥ 駒田和子
「訪問指導」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
もしも、ぼくが話せたら・・・ ‥‥‥‥‥ 歌川敬子
好きも嫌いも体で表現 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 赤坂あき子
元気で ゲンマ! ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 山口芳子
「母親学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
母親教室は心の支え ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 鈴木日奈子
動かぬ右手も幸せを ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 永吉チエ
わたしとわが子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 坂田佳子
「訪問の家」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江


番外編
講演録 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 原 順子

<番外編・原さんの講演録は「わが子」に掲載されていたものではありませんが、ムコ多糖症で亡くなった長男・岳史さんのことを、2001年127(土) に、沖縄県名護市 万国津梁館 で開かれた てぃんさぐの会(沖縄小児在宅医療基金)で原さんがお話しされた講演録です>



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