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悦子は私 私は悦子

       芝山政江


 悦子さんと言うと教室で哺乳ビンをくわえミルクを飲んでいた光景を思い出します。小さい小さい悦子さんでした。
 担任の先生に哺乳ビンを止めましょうと言われ、びっくりして、登校拒否をおこしそうになった芝山さんも、今はもう貫録充分の母親グループのメンバーです。悦子さんも食事の改善で大きく大きくなりました。
 当時小学生だった可愛いお姉さんの華子さんも高校一年生。
無理をしないでゆっくりゆっくりまた頑張っていきましょう。


 「ヨイショ、悦ちゃん。ホイホイホイ・・・・。こら、あばれるな。ホイホイ、悦ちゃん」
近頃、とみにヒョロッと背丈ののびた悦子をかついで、三階にあるわが家から、かけ声勇ましく、コロコロとおりていくのは、背は五尺にみたない私・・・・。
 片や、悦子は外へ出た喜びで「キャア、キャア、キャア・・・・」
 階段ですれちがう隣人の皆さんも、「悦ちゃん、元気?オハヨ、学校ね」
と、これまた威勢よく、声をかけてくれます。‥‥‥ 最近の登校日の、朝のひとこまです。
 親子ともどもたくましくなったものです。数年前は、チマチマと小さな悦子をおんぶしていると、目のやり場に困るような顔で、「まあ・・・・・奥さんもたいへんネ・・・・」
と、憐憫の情をこめていってくださったものでしたが・・・。
 中学一年、芝山悦子。
昭和四十二年十一月十五日、出産。目鼻だちのはっきりした、美人の誕生でした。
 ところが、生後三ヶ月、異常を発見・・・・。
 「小頭症による両下肢麻痺です。」
 「目も見えなくなっています。」
 「口もきけませんよ。」
 病院の門をくぐるたびに、悦子の前途は次々にふさがれていきました。まるで、未来への扉が目の前でバタンバタンと音高くとじられていくように・・・・・。
 私は、ただ悦子のまわりをオロオロ・・・・・。一番大切な時に、マイナスになるようなことばかりしていたのでした。
 とうとう熱を出して悦子の入院・・・・・。
 「なんという・・・・・、あなたは母親として最低ですぞ」
こっぴどく主治医の先生に叱られました。
 「この子の生命を保ってやるためには、全介助が必要だと、あれほどいってあったはずなのに・・・・」
 全介助・・・・。ようやく、その意味の重さがのみこめてきました。自分の意志や、本能で、寝返りをうてない子をほっておけば、たちまち床ずれをおこすのは当然です。うっかり水けをとらせなかったりすると、のどがかわいたと泣いて訴えることもできずに脱水症状をひきおこしてしまうのです。
 そんな注意も上の空、オロオロママは、やることなすこと、うわすべりしていたのです。
 “ようし、これを機会に汚名返上・・・・。先生に「きれいに育ててるね、立派なものだ」とほめてもらえるようにしなくては・・・・”と、少しずつ賢明な母親になろうと努力しました。
 “今、悦子は何をしてほしいのだろう”
 悦子をよく知り、まるで悦子と溶けあっていなければわかることではありません。相手の立場に立って考えることもできるようになりました。
 ほんとうに悦子がいてくれたので、少しはましな私が、ここに存在すると思います。
 わが家の行動は、悦子が中心になっています。二つ年上の姉の華子も、充分それを認めています。
 悦ちゃんのために温風ヒーターにしたら。悦ちゃんにこれをしてあげよう、等々と・・・。とどのつまりは家族全員がこれらの恩恵をこうむっているのです。生活はすべて主人の働きの何ものでもないのに、いつのまにやら「悦ちゃんのおかげ、ありがとう!」ということになってしまいます。
 最近は「悦ちゃん」と呼ぶと「アー」と声をあげてニコニコ笑って顔を寄せて来ます。遠慮がちに自分のおでこを、コツンコツンと、私の顔にぶつけて来ます。いとしさに、よだれでクチャクチャのホッペにほおずりして、「チュッ」とやってしまいます。四十も半ばを過ぎた私に、心いっぱい、体いっぱい愛情のそそげる悦子がいるなんて・・・・・やっぱり幸せです。
 そして、ほんとうにこう思うのです。
 悦子は私で、私は悦子、なのだと・・・・。
 おかしなことに、自分の好物を食べたりしても、おいしいと思わなくなりました。どうやら、悦子の味覚に同化してしまったのでしょう。お風呂にしても、いっしょに入って悦子も満足げだなと思うと、とても気分爽快ですが、何かあって悦子だけお風呂に入れないときは、なぜか少しもさっぱりした気分になれないのです。
 悦子は外へ出たり、学校へ行くのをとても喜びます。
 幸いにも姉が高校を卒業したら、すぐに運転免許を取って、悦子の足となって行動範囲を広げる、ともいってくれます。
 それにしても、悦子を家の中に閉じこめたままだったら、どうなっていたでしょう。以前の私は、いつまでも心の中で、「悦子のような子に、なぜ学校が必要なの」「進歩なんてあるはずないのに・・・・」と、ゴネていたのでした。
 今にして、学校、先生、お友達のふれあいは、悦子にとっても、母親にとっても、とても大切な成長の場であったとつくづく感じ、感謝しております。
 今は高校迄行けたら・・・・・、それには中学の成績がひびくのではないかと、教育ママぶりを発揮して、悦子と自分のお尻をたたいて、中二、中三とガンバロウ!と、決意しています。
 同時に、今年の年頭のことですが、「人のために、少しでも尽くせる私でありたい」と、心にきめた私です。私たちは、多くの善意に守られて、ここまで生きてくることができました。それだけに、有難さが身にしみています。さあ、こんどは私たちの番です。悦子の介助にもゆとりのできた今、まず身近なところから、自分にできることで、誰かのお役に立ちたいのです。
 そして、悦子とともに、一日一日を大切に、悔いなく生きていこうと思うのです。

●昭和57年に発行された「わが子」より(部分)


「わが子」目次

はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
灰色の中に光るなにかが・・・‥‥‥‥‥‥ 鎌田絢子
悦子は私 私は悦子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 芝山政江
教えられたチーム・ワーク作り ‥‥‥‥‥ 安達恵美子
「訪問学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
子どもの笑みは愛の色 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 依田千津子
いい思い出を固形スープのように ‥‥‥‥ 駒田和子
「訪問指導」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
もしも、ぼくが話せたら・・・ ‥‥‥‥‥ 歌川敬子
好きも嫌いも体で表現 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 赤坂あき子
元気で ゲンマ! ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 山口芳子
「母親学級」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江
母親教室は心の支え ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 鈴木日奈子
動かぬ右手も幸せを ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 永吉チエ
わたしとわが子 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 坂田佳子
「訪問の家」のこと ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 日浦美智江


番外編
講演録 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 原 順子

<番外編・原さんの講演録は「わが子」に掲載されていたものではありませんが、ムコ多糖症で亡くなった長男・岳史さんのことを、2001年127(土) に、沖縄県名護市 万国津梁館 で開かれた てぃんさぐの会(沖縄小児在宅医療基金)で原さんがお話しされた講演録です>



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